ミステリーとしての読みどころ
大雨の夜、急カーブの続く難所で、一台の自動車が大破します。押しつぶれた運転席から見つかったのは、著名な実業家の死体。
痛ましい交通事故——のはずでした。ところが検死は、事故が起きた時刻より数時間も前に、この男がすでに息絶えていたことを告げます。
では、あの車を走らせていたのは誰なのか。E・C・R・ロラックの『曲がり角の死体』は、たった一行の検死結果で日常を裏返してみせる、英国探偵小説黄金期の一編です。
著者について
作者のE・C・R・ロラックは、1894年にロンドンで生まれた書き手です。1931年、ロバート・マクドナルド首席警部を主役に据えた The Murder on the Burrows で世に出て以来、コリンズ社の〈クライム・クラブ〉叢書の看板として、数多くの謎解きを送り出しました。
魅力的な幕開けと、膨らんでいく謎。実作の多さと安定した手堅さで黄金期の英国本格を支えたその筆は、いまでは、クリスティに比肩する最良の女流作家の一人に数えられています。
そして1958年、その生涯を閉じました。
本作『曲がり角の死体』の原書が世に出たのは1940年。それが日本語で読めるようになったのは、七十年以上を経た2015年、創元推理文庫からのことでした(藤村裕美訳)。
長く紹介されずにいたこの一編は、訳出されるや「英国探偵小説黄金期の快作パズラー」と迎えられ、『2016本格ミステリ・ベスト10』の海外篇で第8位に選ばれています。四分の三世紀を経てなお、その謎解きの手応えは少しも褪せていませんでした。
物語の入り口
物語は、その大雨の夜の情景から立ち上がります。視界を奪う雨、光を弾く濡れた路面、そして急カーブがいくつも折り重なる難所。
「ダイクス・コーナー」と呼ばれるこの一角で、一台の自動車が制御を失って大破します。運転席から見つかったのは、名の知れた実業家の死体でした。
夜と雨と急カーブ——三つの不運が重なれば、誰もが「気の毒な事故だ」と眉をひそめて通り過ぎるはずです。捜査にあたる側も、はじめはそう見ていました。
ところが、検死がその見立てを根こそぎ覆します。この男が息を引き取ったのは、衝突が起きるよりも数時間前のこと。
死因は自動車事故ではなく、一酸化炭素中毒だというのです。しかも奇妙なことに、事故が起きたちょうどその頃、現場とはまるで別の場所を走る被害者の車を見た、という証言まで現れます。
数時間前にすでに死んでいた男。だが、その車は夜の道を確かに走っていた。
では——死者が、ハンドルを握っていたとでもいうのでしょうか。
この、理屈の上では成り立たないはずの状況に立ち向かうのが、ロンドン警視庁から招かれたマクドナルド首席警部です。地元の思い込みや、「事故」という手近な答えに引きずられることなく、目の前の事実を一つずつ検めていく。
読者もまた、彼の肩ごしに、成立しようのない光景をどう解きほぐせばいいのか見当もつかないまま、証言と物証のあいだに立たされることになります。派手な仕掛けや大立ち回りではなく、地道な問いの積み重ねだけで、その「あり得なさ」に少しずつ道をつけていく——それが本書の運びです。
読みどころ
読みどころは、「あり得ない」という一点だけで、最後まで読み手を引っぱっていく吸引力にあります。 黄金期の探偵小説には、豪奢な館や華やかな顔ぶれが舞台を彩る作品も少なくありません。
本書が差し出すのは、そうした華やぎではなく、雨に濡れた田舎道と、たった一つの覆しようのない矛盾です。飾りを削ぎ落とした分だけ、「どうすればこの状況が成り立つのか」という一点に、読者の注意はまっすぐ吸い寄せられていきます。
手がかりは物語のなかに置かれ、マクドナルドはそれを拾い集めては筋道を立てていく。名探偵の推理を追いかける、謎解きそのものの醍醐味を正面から味わえる作りです。
もう一つの読みどころは、ロラックという書き手の、危なげのない語りの確かさにあります。魅力的な幕開けから、謎がゆっくりと膨らんでいく運び、そして解き明かしへ。
その足取りには、多作な書き手ならではの安定した手つきが通っています。「クリスティに比肩する」と評されながら、長らく日本語では読めなかった作家の実力を、まずはこの一冊で確かめられる。
気に入れば、同じ訳者の手による『悪魔と警視庁』『鐘楼の蝙蝠』といったロラック作品へと、読み進む道も開けています。
名探偵の推理に一歩ずつ付き合いながら、示された手がかりから自分でも真相を組み立ててみたい——そんな古典的な謎解きの愉しみを求める読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、息もつかせぬ展開の速さや、血なまぐさい緊張感を期待して開くと、雨に煙る田舎道の、静かで地道な足取りは物足りなく映るかもしれません。
けれど、その落ち着いた歩幅こそが、黄金期パズラーの味わいどころ。腰を据えて謎と向き合いたい夜に、ちょうどよく寄り添ってくれます。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の一冊(藤村裕美訳)になります。巻末には林克郎による解説を収録。
長く日本語では読めずにいた黄金期の快作を、行き届いた訳で味わえるのは、古典ミステリの読者にとって小さくない僥倖です。雨の夜の曲がり角と、成り立たないはずの一つの謎へ。
まずはその入り口に、足を踏み入れてみてください。