ミステリーとしての読みどころ
休暇中に開いた新聞の、たった一本の見出し。それが、一年前に途切れたはずの事件をもう一度動かしはじめます。
『森を抜ける道』は、警察に届いた一篇の詩を発端に、モース主任警部が女子学生の失踪事件へ分け入っていく物語です。詩が届いた——ただそれだけの出来事が、静止していた捜査を揺り起こす。
そこから殺人事件の謎へと推理が伸びていくさまを、英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞は高く評価しました。
著者について
作者はコリン・デクスター。モース主任警部を主人公とするシリーズの書き手として知られる作家で、本書(原題 The Way Through the Woods)は1992年に発表された一作です。
シリーズものは続きものであるがゆえに、一作ごとの出来映えが読者の中でならされてしまいがちですが、本作はその平均から抜け出して、英国推理作家協会(CWA)賞のゴールド・ダガー賞を受けています。シリーズの一編としてだけでなく、独立した長編として本国で正面から認められた一冊だということです。
その手触りは、警察の手続きを踏んで進む捜査小説の骨格に、英国らしく湿った風景と、言葉をめぐる謎解きの興趣が同居しているところにあります。事件を追うのは一人の警部ですが、実際に動くのは組織であり、記録であり、人手を集めた捜索です。
頭をフル回転させたい読者に向いた一作でありながら、その回転を下から支えているのは、地に足のついた捜査の描写。この二重構造が、読み進めるほど効いてきます。
物語の入り口
物語は、休暇中のモース主任警部が宿泊先で《タイムズ》を広げるところから動き出します。休暇とは、本来なら事件から離れているはずの時間。
その無防備なひとときに、ある見出しが目に飛び込んできます。記事が伝えていたのは、一年前に起きた女子学生の失踪事件のこと。
そして、その事件を解く鍵があるらしい謎の詩が、警察に届けられたという知らせでした。
一年という時間の重さが、この導入にはよく効いています。行方が分からなくなってから季節がひと巡りし、当時の捜査はすでに行き止まりに達している。
関係者の記憶は薄れ、世間の関心も引いていく。そこへ、詩が届く。
捜査の常識からはおよそ外れた形をした何かが、事件の側から差し出されてくるのです。誰が、なぜ、そんな回りくどい方法を選んだのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、記事を読むモースの手は止まります。休暇はここで終わったも同然。
やがて事件はモースの手に委ねられ、捜査は詩の指し示す先へと向かいます。舞台となるのはワイタムの森。
木々の下に何があるのかを確かめるため、大がかりな捜索が始まります。森を掘り返すという行為には、独特の緊張があります。
何も出てこなければ徒労に終わり、何かが出てくれば事態は一段深いところへ落ちていく。どちらに転んでも軽くは済まない作業を、捜査陣は淡々と進めていくことになります。
そしてその先には、意外な発見が待ち受けている——公式の惹句は、そこまでを予告しています。
読者が置かれるのは、モースの手元をすぐ後ろから覗き込む位置です。詩という不確かなものを前にして、彼が何をどう読み取ったのか。
動き出した捜査の輪郭は見えても、そこへ至る筋道はしばらく伏せられたまま。腑に落ちない感触を抱えながらページを繰る時間そのものが、この作品の仕掛けの一部になっています。
読みどころ
読みどころは、一篇の詩という頼りない素材が、殺人事件の輪郭へと形を変えていく過程にあります。 詩は、指紋も足跡も残しません。
残すのは解釈の余地ばかりで、手がかりとしては扱いにくいことこの上ない代物です。それを警察の手続きに乗せるには、読むという作業を捜査という作業に翻訳しなければならない。
この翻訳の工程が、そのまま物語の推進力になっています。言葉の読みが人手を動かし、動いた人手がまた新しい読みを要求する。
頭を使う愉しみと、足で稼ぐ捜査小説の重量感が、ここでは同じ一本の線の上に並びます。
もうひとつの読みどころは、英国の土地そのものの存在感です。森という舞台が、現場の座標であることを超えて、事件の気配をまとったまま立ち上がってきます。
木立の暗さ、掘り返される土の匂い、その周囲に集まってくる人々のざわめき。英国情緒を風景ごと味わいたい読者にとって、この森は長く記憶に残る場所になるはずです。
捜査の重厚さと土地の湿り気が溶け合ったとき、事件は単なる事案の枠を抜け出して、一篇の物語になります。
こんな人におすすめ
相性をいえば、事件の発生から解決までを一直線に駆け抜ける勢いを求める読者には、本作の歩みはゆっくりに映るかもしれません。捜査は寄り道をし、確かめては引き返す。
答えへ向かう道は、題名どおり森の中の小径のように曲がりくねっています。逆に、与えられた手がかりを自分の頭でも転がしてみたい読者、警部と同じ材料を前に考える時間を楽しめる読者には、この密度は願ってもないものになるはずです。
英国警察小説の重厚な手応えと、言葉をめぐるパズルの興趣を一度に味わいたいとき、迷わず手に取れる一冊です。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。モース主任警部を主人公とするシリーズの一作ですが、受賞作である本書から読みはじめても、この世界への入り口としては十分に親切です。
気に入れば、同じ警部が登場する他の作品へ手を伸ばす愉しみも控えています。休暇先で目にした一本の見出しから始まり、森の奥へと分け入っていく捜査の物語は、発表から時を経たいまも、その手応えをまったく失っていません。