ミステリーとしての読みどころ
オックスフォードのホテルで、アメリカから来たツアー旅行客の婦人が急死します。死因は心臓麻痺。
旅先で起きた不幸な出来事として片づけられても、おかしくはない一件でした。ところが、そこにひとつだけ収まりの悪いものが残ります。
彼女が持っていた貴重な中世の装身具が、どこにも見当たらないのです。ひとりの死と、消えた小さな品。
その二つが同じ場所に並んだとき、モース主任警部の目には別の絵が浮かびはじめます。
著者について
作者はコリン・デクスター。本書(原題 The Jewel That Was Ours)は1991年に発表された、モース主任警部を主人公とするシリーズの一冊です。
舞台はオックスフォード。捜査の指揮を執るのは警察の主任警部であり、事情聴取も裏取りも、組織の手順の上を進んでいきます。
それでいて、事件を解きほぐす鍵は最後まで、集まった言葉をどう読むかという一点に懸かっている。警察小説の骨格の内側に、謎解きの愉しみがまるごと収められた作りです。
出版社の惹句は本作を、二転三転するプロットで描く現代本格の粋と呼んでいます。現代を舞台にした警察の捜査を描きながら、読者に差し出されるのは、腰を据えて頭を働かせる種類の読書。
派手な追跡劇に頼らず、証言と事実の突き合わせだけで最後まで引っぱっていく——そういう自信のある一冊だと考えていただければ、そう遠くありません。
物語の入り口
物語は、オックスフォードを訪れた一行の旅程の途中から動き出します。旅程に組まれた短い滞在。
その宿泊先のホテルで、参加者の婦人が急死します。死因は心臓麻痺とされました。
旅行者が異国の地で倒れる——痛ましくはあっても、それだけなら警察の出る幕はありません。旅先で起きた不運な出来事として、静かに過ぎていくはずでした。
事態を裏返すのは、彼女が携えていた貴重な中世の装身具です。それが紛失していることがわかる。
急死と、失われた品。この二つが同じ夜に重なったという事実だけで、部屋の空気の意味はまるごと変わってしまいます。
知らせを受けたモース主任警部は、他殺ではないかと疑いを抱き、捜査に乗り出します。死因の見立てが出ている以上、疑うこと自体に確たる根拠があるわけではありません。
あるのは、腑に落ちないという感覚だけ。その頼りない一点から、捜査は立ち上がっていきます。
そうして始まる聞き込みの相手は、ツアー客とガイドたち。同じ日程を共有し、同じ場所にいたはずの人々です。
ところが、集まってくる証言は錯綜します。あの時間、誰がどこにいて、何を見て、何をしていたのか。
同じ出来事を語っているはずの話が、どうにも噛み合わない。読者の手元に置かれるのも、整理された事実の一覧ではありません。
食い違ったまま積み上がっていく言葉の束です。どれが記憶違いで、どれが言い落としで、どれが意図されたものなのか——判断を保留したまま、捜査の進み具合につきあうことになります。
さらに事件は、ひとつの死にとどまりませんでした。やがてツアー関係者の一人の死体が、川面に浮かびます。
静かな街の風景に、二つ目の死が置かれる。捜査の重さは一気に増し、モースの前に広がる証言の森は、いっそう深いものになっていきます。
読みどころ
読みどころは、集まった言葉を何度も組み替えていく、その思考の運動そのものにあります。 手がかりの多くは、人の口から出た言葉のなかに埋まっています。
だからこそ、ひとつの証言の重みが変われば、事件の絵は違う形に組み上がる。二転三転するプロットという評のとおり、読者は一度立てた見取り図を、途中で自分から畳み直すことになるはずです。
読みながら考え、考えた先でまた考え直す。その往復に付き合わせる力があるからこそ、モースの推理は華麗と呼ばれるのでしょう。
もうひとつ味わい深いのが、舞台の選び方です。オックスフォードという古い街を、外から来た旅行者たちが束の間だけ通り過ぎていく。
その通過点で事件が起きる、という設定が効いています。土地に縁のない人々の証言が主な手がかりになる状況は、捜査にとってはこの上なく厄介で、読者にとってはこの上なく魅力的。
英国の情緒と警察捜査の重厚さが同居する読み味は、本作の大きな魅力です。
こんな人におすすめ
相性でいえば、速い展開や大きな見せ場を求める読者には、序盤の情報整理がゆっくりに感じられるかもしれません。本作の面白さは、証言を照合し、矛盾を拾い、仮説を立て直していく作業の手応えの側にあります。
逆にいえば、腰を据えて頭をフル回転させたい人には、これ以上ないごちそう。一気読みの興奮より、読みながら考える時間を楽しみたい読者に向いています。
シリーズの一冊ではありますが、事件は短い旅程のなかで立ち上がり、その枠のなかで捜査が進みますから、ここから足を踏み入れるのも十分に自然な入り方です。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。モース主任警部シリーズの一冊として、現代本格の粋と評される作品を手に取れます。
気に入れば、同じ警部が指揮を執る他の事件へ進む楽しみも待っています。オックスフォードのホテルから消えた中世の装身具が、どんな道筋で読者を迷わせるのか。
錯綜する証言の向こう側を見たい方は、ぜひページを開いてみてください。