ミステリーとしての読みどころ
大学の元研究員が刺殺される。その捜査を引き継いだところから、モース主任警部が背負い込むことになった事件は、思いがけない形へねじれていきます。
容疑者と目されていた男が忽然と姿を消し、数週間後、今度はその男自身が刺殺体となって発見されるのです。『カインの娘たち』は、二つの死が向かい合う地点から謎解きの時間が始まる一冊。
読み手に求められるのは、目を凝らして考えつづける根気です。
著者について
作者はコリン・デクスター。本作(原題 The Daughters of Cain)は1994年に発表された、モース主任警部を主人公とする連作の一編で、日本では早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫に収められています。
英国の警察が組織として事件を追う警察手続きものの骨格を持ちながら、その中身は徹頭徹尾、謎解きの小説です。手がかりを拾い、仮説を組み、それが崩れ、また組み直す——捜査の進行がそのまま推理の進行になっているところに、このシリーズの手ざわりがあります。
刊行元が「華麗な謎解きで読者を魅了しつづける、現代本格の最高峰シリーズ」と掲げ、そのなかの注目作として送り出しているのが本作です。
物語の入り口
物語は、大学の元研究員が刺殺されたという一報から動き出します。ただしモース主任警部がこの事件を受け持つのは、捜査がすでに動き出したあと。
他人の手で積み上げられた資料の上に自分の目を重ね、固まりかけた見立てをもう一度ほどくところから、彼の仕事は始まります。先行する捜査が何を見て、どこで立ち止まったのか。
それを確かめ直す手間から入らねばならない引き継ぎという形そのものが、この物語の最初の負荷になっているのです。
やがて捜査線上に浮かぶのが、博物館に勤める係員の男でした。容疑者と思われたその男が、あるとき行方をくらまします。
逃げた者を追う捜査は、進むべき方向がはっきりしているぶん、まだ歩きやすいものです。ところが事態はもう一段ねじれます。
数週間後、男は刺殺体となって見つかるのです。しかも凶器は、博物館から盗まれたナイフでした。
容疑者だったはずの人物が、二人目の被害者として物語に戻ってくる。追うべき相手として名前を書き留めていたはずの人物が、こんどは被害者の欄に並ぶ。
この一手で、事件は輪郭ごと描き直しを迫られます。
二つの殺人に、関係はあるのか。この問いが、そのまま事件の背骨になります。
答えが定まらないかぎり、追うべきものの形さえ決まらない。ひとつの事件として束ねるのか、それぞれ別の事情を抱えた出来事として扱うのか。
捜査の入り口に立った時点で、すでに大きな分かれ道が用意されているわけです。宙ぶらりんの手応えを抱えたまま、モースは聞き込みを重ねていきます。
そして浮かび上がるのが、殺された男に恨みを持つ三人の女の存在。ようやく見えた輪郭かと思えば、彼女たちには鉄壁と呼ぶほかないアリバイがありました。
恨みの理由はある、それでもその時刻、その場所にはいられない——手が届きそうな距離まで来て、すっと逃げられる感触です。読者はモースの手元にあるのと同じ材料だけを渡され、二つの死のあいだに線を引いてよいものかどうかを、彼と一緒に決めかねる位置に立たされます。
読みどころ
読みどころは、犯人を捜す前に「事件の形」を決める問いが立ちはだかる構えにあります。 二つの死をひと続きの出来事として読むのか、別々の線として並べるのか。
その扱い方ひとつで、同じ事実がまるで違う意味を帯びてしまう。捜査が進むほど材料は増えるのに、増えた材料が答えを一つに絞ってくれるとはかぎりません。
そこへ、鉄壁のアリバイという厚い壁が加わります。恨みという動機がはっきり見えている相手ほど、時間と場所の壁は高く感じられるもの。
動機の側から近づけば近づくほど、事実の側が押し返してくる——このせめぎ合いが、最後まで思考を休ませてくれません。読者に配られる材料は、どれも小さく、それ単体では意味を決めきれないものばかり。
だからこそ、いま自分がどの仮説の上に立っているのかを意識しながら読む楽しみが生まれます。大学と博物館という、落ち着いた学びの場を背景に置いた語り口も、この作品の風合いを決めています。
人が集まり、記録が保たれ、それぞれの立場が静かに守られている場所。その静けさの下で、刃物を使った死が二つ重ねられているという落差が、物語に独特の緊張を与えています。
こんな人におすすめ
相性でいえば、疾走感やアクションを求める読者には、この物語の歩みは静かに映るかもしれません。本作の味わいは、事件の派手さよりも、細かな事実を突き合わせて考えつづける時間そのものにあります。
読みながら人物と時刻を書き出したくなる人、腰を据えて頭をフル回転させたい人にとっては、これ以上ない相手。英国の警察小説の重厚な語り口を好む読者にも、安心して薦められます。
手に取るなら
現在手に取りやすいのは、早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫。モース主任警部の連作の一編にあたりますが、注目作と目される本作からこの警部の捜査に付き合いはじめるのも、十分に魅力的な選択です。
気に入れば、同じシリーズの別の事件へ手を伸ばす楽しみも待っています。発表から歳月を経てなお、じっくり考えたい読者を満足させる力は少しも目減りしていません。