ミステリーとしての読みどころ
自宅の向かいの家。その窓の奥で、男が銃を手に女へと迫っている——恰幅のよいダルジール警視が目にしたのは、そんな光景でした。
『骨と沈黙』は、英国警察小説の名手レジナルド・ヒルが放つ、ヨークシャーを舞台にしたダルジール&パスコー・シリーズの一作です。事件を追うことを生業とする男が、あろうことか、その一部始終を目撃してしまう側に立たされる。
この居心地の悪い距離から、物語はゆっくりと動き出します。
著者について
作者レジナルド・ヒルは、英国の警察小説を長く牽引してきた書き手です。粗野で辣腕、しかし勘の鋭いダルジール警視と、理知的で繊細なパスコー主任警部。
この対照的な二人が組んで事件にあたる凸凹コンビの造形が、シリーズを通しての魅力になっています。本作は原書が一九九〇年に世に出て、その年のCWA——英国推理作家協会が贈るゴールド・ダガー賞を受賞しました。
数あるダルジール&パスコー作品のなかでも、とりわけ高い評価を受けた一作として知られています。派手な仕掛けで読者を驚かせるより、地方都市に生きる人々の姿を厚みのある筆で描き込んでいく。
そんな作風が、この賞と評価に結びついたと言っていいでしょう。事件はいつも、それが起きた土地と、そこに暮らす人々の生活の延長線上にある。
ヒルの警察小説には、そうした地に足のついた確かさが通っています。
物語の発端は、ダルジールが自宅の窓から見てしまった、あの光景です。向かいの家で、男が銃を手に女へ迫っている。
ただごとではないと駆けつけたとき、女はすでに撃たれて息絶えていました。その傍らで、男は言い張ります。
銃が暴発したのだ、と。つまりこれは、悲しい事故なのか。
それとも、事故を装った殺人なのか。目の前に転がっているのは動かぬ死体ひとつ。
にもかかわらず、そこで何が起きたのかは、恰幅のよい警視の目にすら判然としません。目撃者であることと、真相を知っていることのあいだには、思いのほか深い溝がある——冒頭のこの一場面が、そのことを静かに突きつけてきます。
物語の入り口
事件はこれだけにとどまりません。この頃、ダルジールのもとには奇妙な手紙が次々と舞い込んでいました。
差出人を名乗らない、自殺を予告する匿名の手紙です。誰が、何のために、こんなものを書いて送ってくるのか。
同僚のパスコー主任警部は、その差出人が何者なのかを探りはじめます。書かれた内容から察するに、どうやら今度の事件に関わりのある人物らしい。
とはいえ、名乗らぬ相手を文面だけから手繰り寄せるのは、容易な仕事ではありません。窓越しの死と、宛先の警視へ届く自殺の予告。
ひとつに見えて別々の、別々に見えてどこかで通じていそうな糸が、地方都市の日常を背景に何本も並んで走り出します。読者はダルジールとパスコー、二人の刑事のすぐ後ろに立たされ、彼らがつかんだことだけを、彼らと同じ歩幅で受け取っていくことになります。
近道もなければ、事件を上から見下ろす神の視点もありません。刑事たちと一緒に足を運び、一緒に思い惑いながら、少しずつ全体像へ近づいていく——その手触りこそが、この物語の呼吸です。
読みどころ
この作品の芯にあるのは、鮮やかな名推理ではなく、生と死に潜む謎そのものを見つめる眼差しです。 一瞬の閃きが霧を晴らすのではありません。
人がひとり亡くなったという厳然たる事実を前に、それが事故なのか殺意の産物なのかを、刑事たちは一歩ずつ確かめていきます。その過程で浮かび上がってくるのは、事件の当事者たちが抱えていた事情であり、彼らが生きてきた土地の空気です。
ダルジールの粗削りな押しの強さと、パスコーの細やかな理知。噛み合わないようでいて補い合う二人のやり取りそのものが、読みどころの一つと言っていいでしょう。
人間の生き死にをめぐる謎を、これほど骨太に、しかも二人の刑事の呼吸で語りきる。シリーズ屈指と評される所以が、読み進むほどに腑に落ちてきます。
こんな人におすすめ
相性の話をしておきます。一発の大トリックや、息もつかせぬ急展開だけを目当てにする読者には、本作の歩みはいくぶん落ち着いて映るかもしれません。
ここでの醍醐味は、驚きの一撃よりも、事件を追ううちに立ち上がってくる人間模様の厚みの側にあります。裏を返せば、刑事たちの日常や地方都市の陰翳ごと物語を味わいたい読者、対照的な二人組の掛け合いに腰を据えて付き合いたい読者には、これ以上ないほど手応えのある一冊です。
読後に長く残る種類の満足を求める人にこそ、そっと差し出したくなります。
手に取るなら
現在は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫で読むことができます。ダルジール&パスコー・シリーズの一作ではありますが、その中でも評価の高い本作から二人の世界に足を踏み入れるのは、じゅうぶんに魅力的な入り口です。
窓の向こうの死から始まるこの物語を気に入れば、同じコンビが活躍する前後の作品へと手を伸ばす楽しみも、その先に待っています。