現代英国 1986
喉を裂かれた二つの遺体。
浮浪者と元大臣。
『死の味』P・D・ジェイムズ

書評

死の味

教会で見つかった二つの遺体の謎にダルグリッシュが挑む、CWAシルバー・ダガー賞受賞作。

死の味 表紙画像
P・D・ジェイムズ 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) 原書 1986年 · 邦訳 1987年
目次

ロンドンの古い教会の、ひっそりとした聖具室。その床の血溜まりの中に、喉を切り裂かれた二つの遺体が横たわっていました。

むごい死にざまもさることながら、それ以上に人を立ちすくませるのは、そこに並んだ二人の顔ぶれです。片方は身寄りのない浮浪者、もう片方は元国務大臣をつとめた准男爵。

生きていれば決して同じ部屋で言葉を交わすことのなかったはずの二人が、なぜ同じ聖具室で、揃って命を落としたのか。『死の味』は、この一枚の異様な絵から静かに動き出す英国ミステリです。

物語の入り口

主役は、詩を書く男でもあるダルグリッシュ警視長。捜査の指揮をとるのが詩人だという設定そのものが、P・D・ジェイムズが事件をどんな眼差しで見つめようとしているかを、それとなく物語っているようでもあります。

物語の舞台となるのは、ロンドンの片隅にある古い教会です。信徒の出入りも絶えて久しいような、時間の澱んだ場所。

その聖具室で見つかった二つの遺体のうち、一人は路上に生きてきた浮浪者のハリー、もう一人は元国務大臣の准男爵ポール・ベロウン卿でした。かたや名も知られぬまま街をさすらってきた男、かたや国政の中枢に名を連ねた人物。

社会階層の両極に立つ二人が、なぜ人けのない教会の一室で、揃って息絶えていたのか。事件はこの一点の不可解さを軸に、静かに、しかし容赦なく広がっていきます。

捜査を託されるのが、ダルグリッシュ警視長です。繊細な感性と鋭敏な知性で難事件をほどいてきたこの警視長が、身分も境遇もかけ離れた二つの死の前に立ちます。

やがて捜査は、ベロウン卿が死の直前にとっていた、ひとつの不可解な行動に突き当たります。その振る舞いが何を意味し、二人の死とどう結びつくのか。

事件の焦点は、次第にそこへと絞られていくことになります。そしてダルグリッシュ警視長が分け入っていくのは、格式あるベロウン家がひそかに抱え込んできた秘密の領域です。

捜査が進むほどに、この一族が背負ってきたものの輪郭が、少しずつ表へ浮かび上がってきます。

読者はこのとき、名探偵の閃きに置いていかれるのではありません。ダルグリッシュ警視長とその捜査陣のかたわらに立ち、彼らが一つひとつ確かめていく事実を、ほぼ同じ順序で受け取っていくことになります。

手がかりの乏しさも、聞き込みのもどかしさも、捜査する側と同じ速度で味わう。近道も、天から見下ろすような視点もありません。

その焦れったさそのものが、ページを繰るうちに、いつしか物語の緊張へと変わっていきます。教会という舞台の静けさと、そこに残された二つの死の重さとが、終始この物語に沈んだ陰影を落としていて、事件の輪郭が見えてくるほどに、その陰影はいっそう濃くなっていきます。

読みどころ

本作の読みどころは、事件を解く過程がそのまま人間を描く過程になっている点にあります。 誰がなぜという線と、被害者や関係者がどんな人生を生きてきたのかを掘り下げる線とが、分かちがたく編み合わされている。

謎を追うために積み上げた事実の一つひとつが、そのまま登場人物の肖像になっていくのです。だからこの長篇は、犯罪小説であると同時に、ロンドンに生きる人々の群像劇としても読めます。

人物の造形と構成の緻密さで最後まで牽引しきる筆力こそが、CWAシルバー・ダガー賞という評価を呼び寄せたのだと感じられるはずです。もうひとつ味わい深いのは、詩を書く男が捜査の中心にいることで、事件を眺める視線に独特の温度が宿っている点です。

死者の一人ひとりに、そして残された人々に、机上の推理では拾いきれない機微へと目が向けられていく。犯罪の背後にいる人間そのものを見ようとする、この作家ならではの筆致が、長い物語を最後まで飽きさせません。

こんな人におすすめ

相性でいえば、息もつかせぬ急展開や派手な見せ場を第一に求める読者には、この重厚な歩みはいくぶんゆっくりに映るかもしれません。本作が差し出すのは、瞬間の興奮よりも、読み終えたあとに長く残る手応えのほうです。

事件そのものだけでなく、それを追う人間たちの内面や、被害者が生きた社会の陰影までまるごと味わいたい。そんな読者にこそ、この一冊は深く応えてくれます。

腰を据えて一つの世界に浸る時間を惜しまない人であれば、まず後悔はないでしょう。

作品の背景

P・D・ジェイムズの作風がひとつの到達点を見せたのが、1986年に発表された本作でした。同年のCWAシルバー・ダガー賞を受け、重厚な人物描写と緻密な構成で読ませる、シリーズ円熟期の代表作として名を残しています。

手に取るなら

現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫で、邦訳は1987年、上下巻の構成です。ダルグリッシュ警視長を主役とするシリーズは長く読み継がれてきましたが、その円熟期を代表する本作から扉を叩くのも、十分に魅力的な入り口になります。

英国犯罪小説が到達したひとつの高みを、腰を落ち着けて味わってみたい方に薦めたい長篇です。

P・D・ジェイムズについて

P・D・ジェイムズは1920年にイングランドのオックスフォードで生まれ、2014年に94歳で亡くなりました。国民保健サービスの病院管理部門や内務省で長く公務員として働きながら執筆を続け、1962年、ロンドン警視庁の警視で詩人でもあるアダム・ダルグリッシュが登場する『女の顔を覆え』でデビューします。

以後ダルグリッシュのシリーズを半世紀近く書き継ぎ、若い女性探偵コーデリア・グレイを主人公にした作品も残しました。

病院や官公庁といった組織を舞台に、込み入った人間関係と登場人物の内面を細かく描き込む作風で知られます。英国推理作家協会(CWA)のシルバー・ダガーを3度受け、1987年には功労をたたえるダイヤモンド・ダガーを、1999年にはアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受けました。

1991年には一代貴族に叙され、貴族院議員も務めています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ミステリ文庫
原書刊行年
1986
邦訳刊行年
1987
ISBN-13
9784150766184
系譜
現代英国 / 警察手続き · シリーズ探偵物
受賞歴

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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