六マイル先で起きていた。
シタフォードの謎
雪のダートムア。降霊会が予言した6マイル先の殺人は、その通り起きていた。クリスティのノンシリーズ。
降霊会の席で、霊が殺人を告げます。「6マイル離れた家に住むトリヴェリアン大佐が、いま殺された」——。
雪に閉ざされた冬の夜、退屈しのぎに始めたはずのテーブル・ターニングが口にした、身の毛のよだつ予言。もしそれが本当だったとしたら。
アガサ・クリスティーが超自然の装いをまとわせて仕掛けた、一風変わった発端です。
物語の入り口
舞台は、雪に覆われて下界と切り離されたダートムア湿原。その一角に建つシタフォード荘に、冬の夜、隣人たちが集まっています。
娯楽のとぼしい山荘での退屈しのぎに、誰からともなく降霊会が始まりました。薄暗がりのなか、六つの人影が小さなテーブルを囲み、指先をそっと載せる。
やがてテーブルが動き出し、霊は一文字ずつ、恐ろしい言葉を綴っていきます——トリヴェリアン、死、殺人、と。
たちの悪い冗談か、それとも本物の黒魔術か。確かめる方法はひとつ、名指しされた大佐本人の無事をその目で見に行くことだけです。
ところが、その家は6マイルも離れており、しかも降り積もった雪が道をふさいでいる。誰かが、吹雪のなかを歩いていくほかありません。
半信半疑のまま、大佐の旧友バーナビー少佐が猛吹雪を突いて確認へ向かいます。そうしてたどり着いた先で少佐が目にしたのは、書斎で撲殺されたトリヴェリアン大佐の姿でした。
しかも調べてみれば、その殺害時刻は、あの降霊会が開かれていた、まさにその最中だったのです。
こうして事件が動き出します。捜査を率いるのはナラコット警部。
かたわらでは、容疑の圏内に立たされた大佐の甥の婚約者エミリー・トレファシスが、新聞記者チャールズ・エンダビーを巻き込んで、自らアマチュア探偵として調べに乗り出します。雪と遮断された道路によって、容疑者は村の住人へと絞り込まれていく。
読者は、超自然に見えた発端がいったいどこへ着地するのか見当もつかないまま、この閉ざされた村に置き去りにされることになります。
読みどころ
この作品の醍醐味は、超自然の装いをまとった発端が、読み進むほどに背筋の通った謎解きへと姿を変えていくところにあります。 霊が予言した死という、いかにもオカルト然とした入り口。
それが最後には、きちんと筋の通ったひとつの絵として腑に落ちる。予言と現実の犯行時刻が、なぜ寸分たがわず重なったのか——この不可能めいた問いこそが、物語を終盤まで引っぱっていく原動力です。
日本語版の惹句が「会心作」と言い切っているのは、伊達ではありません。突飛に見える発端が最後まで宙に浮いたままにならず、きちんと物語の骨格に組み込まれている。
その手際のよさが、この作品を長く読み継がせてきました。
閉ざされた環境の緊張感も、大きな見どころです。雪と塞がれた道が容疑者を狭い村のなかに封じ込め、そこに息詰まる人間関係が絡んで、盤面はしだいに窮屈さを増していきます。
加えて、公式の紹介でも触れられているとおり、脱獄囚や博物学者、さらにはコナン・ドイルその人への目くばせといった、『バスカヴィル家の犬』を思わせる意匠が随所にちりばめられています。ダートムアという土地がまとう物語の記憶を、クリスティーが承知のうえで借りていることが伝わってくる作りです。
そして、依頼を受けてはじめて動くポアロやマープルとは違い、婚約者を救うために自ら踏み込むエミリーの能動性も見逃せません。シリーズ探偵から離れたクリスティーだからこその、身軽で自由な味わいがそこにあります。
こんな人におすすめ
名探偵の鮮やかな推理そのものより、雪と嵐に閉じ込められた閉鎖環境の空気をたっぷり味わいたい読者に、よく合う一冊です。降霊会という飛び道具めいた発端も、超自然を額面どおり怖がらせるためではなく、あくまで合理の物語への入り口として据えられたもの。
オカルトの決着に不満が残る心配はありません。逆に、ポアロやマープルの安定した名調子をこそ求めて開くと、看板探偵のいない座組みに、はじめは物足りなさを覚えるかもしれません。
けれども、その不在こそが、この独立長編でしか味わえない身軽さの源でもあります。
作品の背景
『シタフォードの謎』は、1931年に発表された、クリスティー初期のノンシリーズ長編です。ポアロもマープルも登場しません。
看板の名探偵を外したところで作者に何が書けるのか——その問いに、クリスティーはこのとき怪奇の気配で応えました。公式にも「クリスティーが超自然的な要素を作品に取り込んだ最初の長篇」と位置づけられる一作で、雪深いダートムアという舞台が、その装置を存分に引き立てています。
米国版は『The Murder at Hazelmoor』と別題で刊行されており、これはクリスティー作品として初めて英米で書名が分かれた例でもありました。看板キャラクターに頼らないぶん、かえって作者の引き出しの広さが覗ける独立長編です。
手に取るなら
邦訳は、田村隆一訳『シタフォードの秘密』として早川書房のクリスティー文庫で長く読み継がれ、いまも手に取りやすい一冊です。ポアロもマープルもいないクリスティーの引き出しを覗いてみたい読者、そして雪と嵐に閉ざされた舞台を偏愛する読者に、まず薦めたい会心作と言えます。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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