ミステリーとしての読みどころ
霧の荒野に、犬の遠吠えが響きわたる——シャーロック・ホームズの長編と聞いて、まっさきにこの一冊を思い浮かべる読者は少なくないはずです。花崗岩の露頭、霧の流れる荒野に佇む古い屋敷、そして一族を呪うと語り継がれる魔犬の伝承。
英国古典ミステリの意匠が、これほど濃密に一冊へ詰め込まれた作品もそうそうありません。
著者について
著者アーサー・コナン・ドイルは1859年、スコットランドのエディンバラに生まれました。エディンバラ大学医学部で学び、開業医として診療のかたわら筆を執りつづけた人です。
学生時代に師事した外科医ジョセフ・ベル教授の鋭い観察眼と推論術が、ホームズという人物像の一つのモデルになったと、ドイル自身が後年に語っています。
本作『バスカヴィル家の犬』は、ホームズ長編の第3作にあたります。〈ストランド・マガジン〉に1901年8月号から1902年4月号まで連載され、その最中の1902年3月に George Newnes 社から単行本として刊行されました。
特筆すべきは執筆の事情です。ドイルは1893年の短編「最後の事件」で、すでにホームズを世を去らせていました。
本作はその設定を保ったまま、「ホームズが現役だった頃の過去の事件」として書かれています。連載が始まると〈ストランド〉の部数は大きく伸び、やがて名探偵が正式に舞台へ戻る『ホームズの帰還』(1905年)への布石ともなりました。
物語の入り口
物語は、ベイカー街221Bの扉を一人の訪問者が叩くところから動き出します。ジェイムズ・モーティマー医師。
彼が携えてきたのは、デヴォン州ダートムアに広がる荒野と、そこに古くから伝わる不吉な言い伝えでした。バスカヴィル家の当主は、荒野をさまよう魔犬に呪い殺される——そんな伝承のまとわりつく一族で、現に当主チャールズ・バスカヴィル卿が屋敷の門前で息絶えていたというのです。
遺体のかたわらには、巨大な犬の足跡が残されていました。
新たに家督を継ぐのは、カナダで暮らしていたサー・ヘンリー・バスカヴィル。彼がはるばる海を渡って屋敷を継ぎに来ると知り、その身を案じたモーティマーが、ホームズのもとへ助けを求めてやって来た——これが事件の発端です。
舞台となるダートムアは、ロンドンの喧噪から遠く隔たった、うら寂しい土地。あたりはうす暗く、濃霧が立ちこめ、沼沢地特有の気味の悪い気配がそこかしこにわだかまっています。
その荒野の只中に建つ古い屋敷へ、若き当主が乗り込んでいく。執事のバリモア、近くに住むフランクランド氏、博物学者のステープルトン——屋敷とその周辺に暮らす面々に、読者の視線とともに次々と嫌疑がかけられていきます。
誰もがどこかに翳りを抱えているように見え、荒野の霧の向こうには、いつ姿を現すとも知れない魔犬の影が揺れている。ホームズをして「近代の犯罪史上、最も特異で衝撃的な事件のひとつ」と言わしめた一件が、ここから静かに動き出します。
読みどころ
この長編ならではの読みどころは、名探偵ホームズが物語の中心から一度身を退くところにあります。 中盤、事件を追う視点は相棒のワトスンに大きく預けられ、彼が現地から送る手紙や報告書を通じて、ダートムアの状況が読者へ伝えられていきます。
ホームズという絶対的な存在がそばにいない心細さのなかで、読者はワトスンとともに荒野を歩き、一つひとつの手がかりを拾い集めていくことになる。シリーズでも珍しいこの「ワトスン主導の捜査」が、相棒という人物の厚みと、名探偵が再び前面に立つ場面の手応えを、いっそう際立たせています。
もう一つ忘れてはならないのが、土地そのものの力です。花崗岩の露頭、点在する古い遺跡、霧に沈む荒野——ダートムアの風土描写は、ドイルが実際に現地を訪ねて得た印象に基づくとされ、ヴィクトリア朝末期の英国の空気がページの向こうから立ちのぼってきます。
一見すると超自然の気配をまとった事件を、物的証拠と論理でほどいていくドイルの手つきは、長編の尺をたっぷり活かして丁寧に運ばれます。怪奇の伝承を本格の作法で着地させるこの型は、のちの英国本格、とりわけジョン・ディクスン・カーらにも確かな影響を残しました。
霧の英国、荒野、古い屋敷、そして血に刻まれた伝承——そうしたゴシックの意匠に心惹かれる読者には、これ以上ない一冊です。ホームズものを長編から読み始めたい方にとっても、格好の入り口になります。
息もつかせぬアクションを求めて開くと、荒野の空気をじっくり吸わせる前半の運びは、ややゆるやかに感じられるかもしれません。けれど、その静かに満ちていく不穏さこそ、本作が一世紀を越えて読み継がれてきた理由でもあります。
手に取るなら
入手はきわめて容易です。創元推理文庫(深町眞理子訳)、光文社文庫(日暮雅通訳)、角川文庫(駒月雅子訳)、新潮文庫(延原謙訳)などが現役で並び、電子書籍もそろっています。
新訳系はいずれも現代の読者に読みやすく整えられており、初めての一冊としても安心して手に取れます。気に入れば、ほかのホームズ長編3作と短編集の数々が待っています。
まずはこの霧深い荒野から、名探偵の世界へ足を踏み入れてみてください。