Top ミステリ Reviews 複数の時計
REVIEW · 書評
N° 157 · 2026-07-21
複数の時計 表紙画像
黄金期英国古典

複数の時計

アガサ・クリスティー / 早川書房(クリスティー文庫)
" 4時13分で止まった4つの時計に囲まれた身元不明の死体。安楽椅子探偵ポアロが紙の上で解く異色作
#とにかく騙されたい#クセの強い天才探偵#安楽椅子探偵
Kindle で読む
本ページのリンクは Amazon アソシエイト・プログラムにより収益を得ています
📝 書評 世評・資料をもとに、当サイトの選書基準で構成した書評です ✓ 結末・犯人・トリックの種類には触れていません
review notes

ミステリーとしての読みどころ

見知らぬ家の応接間に足を踏み入れたら、そこに死体が横たわっていた。しかもその周囲を囲んでいたのは、そろって四時十三分で時を止めた、いくつもの見慣れない置時計だった――。

『複数の時計』(原題 The Clocks)は、この奇妙で忘れがたい発端ひとつだけで読者を引き込んでしまう、アガサ・クリスティー円熟期の一篇です。読み終えたあとも、四時十三分で凍りついた時計の列が、しばらく頭の隅に居座りつづけます。

著者について

作者アガサ・クリスティーの名は、いまさら多くの説明を要しないでしょう。名探偵エルキュール・ポアロを生み、幾世代もの読者を鮮やかに欺きつづけてきた巨匠です。

本作はそのポアロが登場する長篇のなかでも後期に位置する一作で、一九六三年に発表されました。堅牢なパズラーの骨格に、同時期の『鳩のなかの猫』とも通じるスパイスリラーの香りをすっと混ぜ込むあたりに、書き手として円熟の域に入ったクリスティーの遊び心がにじみます。

もう証明すべきものは証明し尽くした大家が、なお新しい趣向で読者を惑わせにくる。そんな余裕の産物として、この長篇はあります。

物語の入り口

物語は、速記タイピストのシーラ・ウェッブが一件の依頼を受けるところから動き出します。ミス・ペブマーシュという女性からの、名指しの依頼。

指示どおりに向かった先は、ウィルブラハム・クレセント十九番地でした。ヴィクトリア朝の建築家が遺したという、三日月形にゆるやかな弧を描く街並みの一角です。

応接間に通されたものの、家の主であるはずの盲目の女主人は留守。手持ち無沙汰のまま部屋で待つシーラの耳に、やがてカッコウ時計が三時を告げる音が響きます。

そしてその直後、彼女は恐ろしいものを見つけてしまう。ソファの脇に、見知らぬ紳士が死んで横たわっていたのです。

異様だったのは、その死体を取り囲むように並べられた、いくつもの置時計でした。どれもがそろって四時十三分を指したまま止まっている。

しかも、そのうち家の主のものと言えるのは、たった一つきり。残りの時計が、いつ、誰の手でこの部屋に持ち込まれたのか、まるで見当がつきません。

呼ばれてもいない速記者、留守の女主人、財布も仕立屋のラベルも取り去られて身元をたどれない被害者、三時を告げたカッコウ時計、そして四時十三分で凍りついた見慣れぬ時計たち。手がかりとも飾りともつかない小道具が、読者の前に一つずつ、静かに並べられていきます。

どこからが仕組まれた事件で、どこまでが偶然なのか。その境目が最後まで判然としないまま、奇妙な発端だけがくっきりと像を結んでいく。

この立ち上がりの座り心地の悪さこそ、本作いちばんの魅力だと言っていいでしょう。

この事件を語るのは、意外にもポアロ本人ではありません。語り手を務めるのは、秘密情報部員のコリン・ラム。

彼は彼で別の防諜任務を追っている最中で、その仕事と、偶然飛び込んできたクレセントの怪事件とが、奇妙なかたちで交差していきます。表向きは無関係に見える二つの筋が、どう絡み合っていくのか。

そのもつれ具合を追うだけでも、ページをめくる手はなかなか止まりません。国際情勢の緊張がうっすらと影を落とす筆致は、パズラー一色の初期作とはまた違う手ざわりで、後期クリスティーならではの幅を感じさせます。

読みどころ

そして本作を語るうえで外せないのが、名探偵ポアロの解決の流儀です。 本作のポアロは、現場にほとんど足を運びません。

コリンが運んでくる証言と書類だけを、安楽椅子に腰を据えたまま吟味し、紙の上から犯人像を浮かび上がらせていきます。「灰色の脳細胞」だけを頼りに謎へ挑む安楽椅子探偵の趣向は、探偵の頭の働きそのものを味わいたい読者にとって、こたえられない一幕です。

さらに中盤には、ポアロが過去の名作探偵小説をあれこれ品評してみせるメタ的な一章も差し挟まれます。ミステリの歴史をひととき見渡すような趣向で、このジャンルを長く愛してきた読者ほど、にやりとさせられる余談になっています。

名探偵の推理に静かに身を委ねたい読者、そして状況そのものが謎めいて見える発端に心をつかまれる読者には、うってつけの一冊です。派手な追跡劇や濃密な人間ドラマを主目的に本を開くと、その持ち味とは少し呼吸が違うと感じるかもしれません。

それでも、奇妙な状況が一つずつ意味を変えていく感触を楽しめる人にとっては、後期クリスティーの懐の深さを存分に堪能できる作品になっています。とにかく気持ちよく騙されたい、という気分の夜にもよく似合います。

手に取るなら

現在手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫、橋本福夫訳で読めます。ポアロもの長篇のなかでも異色の手ざわりを持つ後期の一作であり、シリーズをひととおり追ってきた読者にとっては、円熟したクリスティーの実験心にじかに触れられる好機でもあります。

奇妙な発端の記憶が読後もしばらく消えずに残る――そんな一夜の読書に、そっと薦めたい長篇です。

❦ ❦ ❦

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1963
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物