ミステリーとしての読みどころ
17世紀の大海原を渡っていく、一隻の木造帆船。船体の軋みと潮の匂いのなかを、悪魔の囁きがゆっくりと乗客たちの背筋を這い上がっていきます。
『名探偵と海の悪魔』は、名探偵がまだ何ひとつ動けないところから幕が上がる、海の上の本格ミステリです。世界一と謳われた探偵は手枷をはめられ、代わりに怪事のほうだけが次々と立ち上がっていく。
逃げ場のない船の上で、その謎に立ち向かうのは誰なのか。
著者について
著者はスチュアート・タートン。デビュー作『イヴリン嬢は七回殺される』がいきなり世界的な成功を収め、コスタ賞最優秀新人賞に輝いて、現代英国本格の新たな旗手のひとりと目された書き手です。
作品ごとに設定を丸ごと組み替えるのがこの作家の流儀で、前作と本作のあいだに繰り返される世界はありません。鮮烈なデビューの次に何を差し出すか——ミステリ作家にとっていちばん難しいこの問いに、タートンが選んだ答えが、時代を17世紀までさかのぼらせた本作でした。
原著は2020年の刊行。英国推理作家協会(CWA)スチール・ダガー賞、英国歴史作家協会ゴールド・クラウン賞、それぞれの最終候補に名を連ね、ガーディアン、フィナンシャル・タイムズ、サンデー・タイムズといった各紙が年間ベスト・ブックに選出しました。
邦訳は2022年、文藝春秋から三角和代の訳で登場し、『このミステリーがすごい!』海外編4位ほか、年末のランキングを広くにぎわせています。近年は第3作『The Last Murder at the End of the World』も発表しました。
物語の舞台は1634年、オランダ東インド会社(VOC)のガレオン船ザーンダム号です。バタヴィア(現在のジャカルタ)から、はるか彼方のアムステルダムを目指す長い航海。
オランダへ帰国する総督一家をはじめ、身分も思惑もばらばらな人々が、一枚の甲板の下に閉じ込められていきます。そしてこの船に、世界一の探偵と謳われるサミュエル(サミー)・ピップスが乗り込む。
ただし、罪人として。両手に手枷をはめられ護送されるという、探偵としては最悪の格好で。
出港の直前、埠頭でひとつの異変が起こります。包帯で顔を覆った怪人が人々の前に現れ、「この船は呪われている、乗る者すべてが滅びる」と告げるのです。
そして言い終えた直後、その男は炎に包まれて焼け死ぬ。まるでゴシック小説の幕開けのような衝撃を残して、ザーンダム号は錨を上げます。
すると、風をはらんだ帆に、悪魔「老いたトム(トム翁)」の印が黒々と浮かび上がる。夜の海にはあるはずのない船の灯りがともり、船内には正体の知れない声が響き、厳重に守られていた極秘の積荷が忽然と姿を消す。
やがて、鍵のかかった密室のなかで人が殺される。木造の船という、どこにも逃げ場のない閉鎖空間で、誰が人間で誰が悪魔なのか、その境目が少しずつ溶けはじめていきます。
けれど、頼みの探偵は牢のなかです。謎を解くべき明晰な頭脳が封じられたまま、怪事だけが積み重なっていく。
そこで前に立つのが、ピップスの長年の相棒である巨漢の傭兵、アレント・ヘイズです。剣を振るう腕は確かでも推理は不得手なこの男が、頭脳明晰な総督夫人サラの力を借りながら、手さぐりで捜査へ踏み出していく。
名探偵が動けないという大きな穴を、いったい誰が、どうやって埋めるのか。読者はその心細さごと、揺れ続ける甲板の上に立たされることになります。
読みどころ
この作品のいちばんの醍醐味は、17世紀の海がまるごと手のひらに乗ってくるような手触りにあります。 タートンはVOCの厳格な階級、船内をつらぬく秩序、植民地統治がはらむ暴力、宗教と迷信が溶け合った人々の心性を、細部までびっしりと描き込みます。
しかもその風俗は、単なる雰囲気づくりの背景画にとどまりません。当時の社会だからこそ成立するかたちで、そのひとつひとつが事件の論理へと絡んでくる。
歴史小説としての厚みと、本格ミステリとしての骨格が、同じ一本の柱として立っている——ここにこの作家の際立った個性があります。天才探偵と忠実な相棒という、ホームズとワトソンを思わせる古典的な構図に、軋む木造船と海の怪異が幾重にも重なり、全方位型のエンターテインメントとして立ち上がっていく。
500ページを超える大作でありながら、章ごとに新たな謎が足されていく運びが巧みで、ページをめくる手はなかなか止まってくれません。
歴史小説と本格ミステリを一度にたっぷり浴びたい人、閉ざされた空間に得体の知れない気配がにじんでいく物語に惹かれる人には、まっすぐ届く一冊です。現代を舞台にした軽快な謎解きだけを思い描いていると、17世紀の重厚な世界へ沈んでいく序盤の密度に、はじめは少し身構えるかもしれません。
とはいえ、その密度こそが後半の推進力へと姿を変えていく作りなので、腰を据えて長い航海に付き合える夜にこそふさわしい物語だと言えます。
手に取るなら
入手は文藝春秋の単行本、そして後に続いた文春文庫で。訳はデビュー作と同じ三角和代が手がけており、大長編にもかかわらず読み心地はどこまでもなめらかです。
前作を読んでいなくても問題なく入っていける独立した物語ですから、タートンにここから出会っても構いません。作品ごとに世界を一新していくこの作家の確かな一手として、じっくり時間をかけて味わってほしい、海上の本格ミステリです。