ミステリーとしての読みどころ
医学校の解剖実習室。18歳の学生が、目の前に横たえられた遺体をじっと見つめています。
同級生たちがメスを握る手をためらわせているなか、彼だけは別のところに目を留めている。教科書に記された死因と、この身体が語っている事実とが、どこかで食い違っているのではないか——ベリンダ・バウアーの『ラバーネッカー』は、他の誰にも見えないその違和感から立ち上がる、現代英国ミステリの異色作です。
著者について
著者ベリンダ・バウアーは、デビュー作『ブラックランズ』でいきなり英国推理作家協会(CWA)のゴールド・ダガー賞を射止め、著書四作目にして「英国ミステリ界の女王」とまで呼ばれるようになった実力派です。市井の人々が抱える心の闇や苦悩、そのなかにかろうじて灯る希望を、丁寧にすくい取る筆致。
その語り口は、ミステリ愛好家という枠を超えて、欧米でも日本でも着実に読者を増やしてきました。本作『ラバーネッカー』もゴールド・ダガー賞にノミネートされ、受賞こそ逃したものの、英国の図書館員が選ぶCWAダガー・イン・ザ・ライブラリー賞に輝いています。
さらに、その年最良の犯罪小説を英国の読者投票で決めるセオクストン・オールド・ペキュリエ賞も受賞。プロの本読みと一般の読者、その双方から支持された一冊であることがうかがえます。
原題の Rubbernecker、そして邦題のラバーネッカーとは、ゴムのように首を伸ばして物事をむやみに眺める人、物見高い人を指す言葉です。この題が誰を、何を指しているのか。
それは読み進めるうちに、じわりと腑に落ちてきます。主人公パトリック・フォートは、南ウェールズに母サラと二人で暮らす18歳。
アスペルガー症候群を抱え、他人と目を合わせることも、その場の空気を読み取ることも得意ではありません。食べ物はアルファベット順に並べないと落ち着かず、ある種の数字の形には生理的な不快感を覚える。
世界の見え方が、周りの人とは少しずつずれている青年です。
彼が「死」に取り憑かれたのには、理由があります。8歳のとき、学校でのトラブルをきっかけに呼び出された父が、その帰り道、パトリックの目の前で車に轢かれて命を落としたのです。
幼い彼には、父の「死」がどうしても理解できなかった。以来、「死の向こうには何があるのか」という問いを、彼は手放せなくなります。
小動物の死骸を解剖し、死者の写真を集める。そんな息子の姿に、母サラは戸惑いを深め、どう向き合えばいいのか答えを見つけられずにいます。
やがてパトリックはカーディフ大学の医学部に入学し、解剖学を学ぶことになります。実習で課されるのは、遺体の解剖と死因の特定。
「19番」と番号で呼ばれる遺体を担当した彼は、その身体を丹念にたどるうちに、あってはならないはずの不審物を見つけてしまう。教科書どおりの死ではない——そう直感したパトリックは、「19番」の娘と接触し、この人物は何者かに殺されたのだと確信します。
警察に伝えようとする彼の動きを、しかしどこからか嗅ぎつけた者がいた。真犯人の手が、まっすぐパトリックへと伸びてくるのです。
この解剖室での物語と並行して、本作にはもう一つ、昏睡状態の患者をめぐる世界が用意されており、複数の人物の章が交互に置かれながら進んでいきます。
読みどころ
本作で探偵役を務めるのは、パトリックの「人とは違う見え方」そのものです。 感情や社交のノイズに邪魔されることなく、目の前の事実だけを異様な精度で拾い上げていく認知特性が、凡庸な目には映らない小さな綻びをあぶり出す。
奇癖を抱えた名探偵という古い系譜を、現代の認知科学の光で描き直したような趣があります。しかも物語は、パトリック一人の語りに寄りかかりません。
複数の人物の視点を交互に組み合わせる構成をとっているため、読者は登場人物それぞれが握る断片を、少しずつ手渡されていく。作中の誰も全体像を見通せないまま進むなかで、いくつもの角度から事態を眺める位置に立たされるのは、ほかならぬ読者自身なのです。
こんな人におすすめ
相性の話をしておきます。手がかりを一つずつ並べ、犯人を論理だけで追い詰めていく——そんなパズルの精度を第一に求めて読むと、本作は少し毛色が違って感じられるかもしれません。
物語の重心は、無機質な推理の機械にではなく、世界とうまく噛み合わないひとりの青年の内面に置かれているからです。逆に、風変わりな主人公の視点に寄り添いながら物語を旅したい読者、市井の人々の悲しみや可笑しみごと事件を味わいたい読者には、深く刺さるはずです。
人の心の手触りを描きながら、謎解きの筋はきちんと通す。その両立にこそ、バウアーの持ち味があります。
手に取るなら
邦訳は小学館文庫で読めます。巻末の解説は、精神科医の香山リカが寄せており、主人公の認知特性という主題に、専門の立場から光を当てています。
バウアーの筆に惹かれたら、エクスムアの荒野を舞台にした出世作『ブラックランズ』へ遡ってみるのも一興でしょう。荒野を描く作家と、都市の医学校を描く作家——同じ書き手の別の顔を知るための、格好の入り口になる一冊です。