死体だけが残った。
アラビアンナイトの殺人
三人の語り手が一夜で語り継ぐ、博物館の奇妙な殺人
夏の夜のロンドン。ひとけのない博物館を見回っていた警官が、館内に見慣れぬ人影を認めます。
ところがその怪人物は、目の前で忽然と姿を消してしまう。そして扉の内側では、すでに一人の男が息絶えていた——。
ジョン・ディクスン・カーの『アラビアンナイトの殺人』(1936年)は、消失と殺人という二つの不可解が一夜のうちに折り重なる、黄金期本格の巨編です。
物語の入り口
物語は、ある夏の夜のロンドンから立ち上がります。人けの絶えた深夜、静まりかえった博物館を、ひとりの警官が定めのとおり見回っていました。
ところがその夜にかぎって、閉ざされているはずの館の内側に、見なれぬ怪しい人物がいる。声をかけ、取り押さえようとした次の瞬間、その人影は文字どおり忽然と消え失せてしまう。
狐につままれたような思いで館内を検めた警官が行き当たったのは、しかし消えた不審者ではなく、一件の殺人でした。誰もいないはずの博物館。
目の前から失せた怪人物。そして横たわる死体。
夜のしじまに沈んだ展示室のなかで、三つの不可解がひとつに絡み合っていきます。
この幕開けの手ざわりに、読者はまず引き込まれます。事件そのものの異様さもさることながら、カーはそこへ独特の色合いを塗り重ねていく。
怪奇と紙一重の不気味さと、どこか人を食ったユーモア。相反するはずの二つが同じ画面に同居し、事件は「アラベスク模様のようにけんらんと展開する」と評されてきました。
不可能犯罪の巨匠が、その持ち味を惜しみなく注ぎ込んだ巨編なのです。読み手は、常識では説明のつかない出来事を前に、警官と同じ戸惑いを抱えたまま次の頁をめくることになります。
やがて物語は、思いがけない形で語り直されていきます。事件にかかわった三人の捜査関係者が、後日、名探偵ギデオン・フェル博士のもとを訪れ、それぞれの見た一夜を順に語り聞かせるのです。
同じ事件が、語り手を替えるたびに違った表情を覗かせる。読者は博士とともに三人の話へ耳を傾け、断片を継ぎ合わせながら、消失と殺人の全体像を少しずつ組み上げていくことになります。
順に明かされていく三つの視点が、やがて一つの絵として像を結ぶまで、ページを繰る手はゆるみません。椅子に腰を据えたまま真相へたどり着く博士の安楽椅子探偵ぶりは、本作きっての見どころです。
読みどころ
題名の「アラビアンナイト」は、一夜のうちに三つの物語が語り継がれていく構成そのものに由来します。 物語が語り手から語り手へと手渡され、一つの事件が幾重にも織り上げられていく。
この三部構成の趣向こそが本作の背骨であり、単なる謎解きの器を超えた、形式そのものの面白さを差し出してくれます。誰の目を通すかで景色が塗り替わっていく感覚は、一夜また一夜と物語を継いでいくあの説話集の呼吸を、たしかに思わせるものがあります。
凝った語りの一方で、謎解きの骨格はいささかも揺らぎません。手がかりは几帳面に積み上げられ、フェル博士の推理はその証拠の上にだけ築かれていく。
奇想と論理、怪奇とユーモア——ともすれば散らかりかねない要素を一つの器にまとめ上げる手綱さばきに、本格作家としてのカーの確かな技量がにじみます。フェル博士がみごとな安楽椅子探偵ぶりを見せる異色作、と評される所以です。
込み入った仕掛けや、雰囲気をたっぷり湛えた古典本格を好む読者には、安心して薦められる一冊です。三人の語りを一つに束ね、その全体から真相をたぐり寄せる楽しみは、能動的に頭を働かせたい向きにこそ響くはず。
逆に、一直線に突き進むスピード感を第一に求めるなら、語りを重ねる構成がいくらか回りくどく映るかもしれません。とはいえ、その手の込んだ道のりこそが本作の醍醐味。
腰を据えて謎とじっくり向き合いたい夜に、静かにこたえてくれる一編です。
作品の背景
本作は、カーの創作が最も充実した時期に生まれたフェル博士ものの一編です。
手に取るなら
いま読むなら、創元推理文庫版(1961年邦訳)で親しめます。黄金期アメリカに生まれた不可能犯罪の巨匠が、脂の乗り切った時期に手がけた代表的巨編であり、フェル博士という名探偵の魅力と、カーならではの怪奇とユーモアの入り混じった味わいを、一冊で堪能できます。
消失と殺人、そして凝りに凝った語りの妙。古典本格の醍醐味を存分に味わいたい読者に、確かな手ごたえを返してくれる一作です。
ジョン・ディクスン・カーについて
ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。
ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。
密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。
書誌情報
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