現代国内 2008
猿の手は願いを三つ叶える。
彼女は何を願ったのか。
『妃は船を沈める』有栖川有栖

書評

妃は船を沈める

願いを叶える代償に災いを呼ぶ「猿の手」を軸に、欲望の輪郭まで解き明かす一作。

目次

一台の車が海に落ち、中から男性の遺体が発見されました。彼は、妻の友人で多額の資産を持つ三松妃沙子から、多額の借金をしていた。

彼女は「妃」と呼ばれ、三つの願いを叶えるかわりに災いももたらす「猿の手」を、大切にしていたという。彼女の願いとは、何だったのか。

『妃は船を沈める』は、臨床犯罪学者・火村英生が、トリックも心情の揺れも解き明かす本格ミステリです。『本格ミステリ・ベスト10』2009年版では国内7位に入りました。

仕掛けの解体と、欲望の輪郭。その両方を同じ密度で追う、火村英生シリーズの一冊です。

物語の入り口

一台の車が、海に落ちました。引き上げられた車内から、男性の遺体が見つかります。

事故なのか、それとも。最初に見えてくるのは、その男性の周辺です。

彼は、多額の借金をしていました。相手は、妻の友人で、多額の資産を持つ女性。

三松妃沙子です。

妃沙子は、周囲から「妃」と呼ばれています。資産家の女性に与えられた、少し仰々しい呼び名。

その彼女が、大切にしていたものがありました。「猿の手」です。

三つの願いを叶えるかわりに、災いももたらすという、伝承の小道具。それを、妃は大切にしていたという。

資産と、借金と、願いを叶える呪物。人の欲望が集まりそうな場所に、この物語の出発点はあります。

彼女の願いとは、何だったのか。物語はこの問いを抱えたまま動き出します。

海に落ちた車、多額の借金、猿の手を手放さない女性。事件の最初に置かれるのは、この三つです。

伝承の怪しさと、金銭の生々しさが、同じ事件のなかに並んでいます。それを結ぶ線を引くのが、火村の仕事になります。

読者は、この事件に、捜査権限を持たない二人とともに向き合うことになります。臨床犯罪学者の火村英生と、語り手の推理作家・有栖川有栖。

どちらも警察官ではありません。捜査権限がないぶん、二人にできるのは、人の話を聞くことと、考えることだけです。

事件を解く立場ではなく、人の話を聞き、考える立場で、火村はこの事件に関わります。トリックも、心情の揺れも。

解き明かされるのは、仕掛けだけではありません。願いを叶える代償に災いを呼ぶ、という猿の手の伝承が、この物語の底に怪奇の気配を漂わせています。

読みどころ

猿の手を大切にしていた女性は、何を願ったのか。火村の論理は、仕掛けの先にあるこの問いへ向かいます。

『妃は船を沈める』でも、火村は論理を一段ずつ積み上げて仕掛けを崩していきます。ただ、その論理が向かう先には、猿の手を大切にしていた女性の願い、という問いがある。

誰が、どうやって、という問いの奥に、なぜ、という問いが置かれている。仕掛けを解くことと、人の心を解くことが、ここでは同じ作業になっています。

もうひとつは、猿の手という小道具です。三つの願いを叶えるかわりに、災いをもたらす。

伝承の怪奇と、本格ミステリの論理。ふつうは相性の悪い二つが、この一冊では同じ物語のなかにあります。

文芸の香りと、論理の骨格。伝承の怪奇を、論理はどう扱うのか。

こんな人におすすめ

誰が犯人かより、なぜ、を知りたい読者、文芸の香りのある本格ミステリを好む読者に向いています。火村英生シリーズを追ってきた人には、見慣れた論理の切れ味が人の願いへ向かっていく手応えがあるでしょうし、事件は本書のなかで完結しますから、シリーズ未読でも問題ありません。

逆に、純粋なパズルの切れ味だけを求める気分のときには、心情の描写は少し湿って感じられるかもしれません。その湿り気が、この物語の味わいです。

論理と情の両方を求める人には、ちょうどよい配分です。

作品の背景

本作は2008年7月、光文社から刊行されました。2012年4月に文庫化され、2023年7月には光文社文庫の新装版が出ています。

現行版はこの新装版で、電子版もあります。刊行の翌年、『本格ミステリ・ベスト10』2009年版で国内7位に入りました。

火村英生シリーズは、2016年1月から3月にかけて日本テレビ系で連続ドラマにもなりました。

手に取るなら

現行版は光文社文庫の新装版。火村英生シリーズの一冊ですが、本作単独でも筋は追えます。

海に落ちた車と、猿の手を持つ女性。彼女の願いとは何だったのか。

2016年の連続ドラマで火村と有栖川の二人組を知った人なら、原作の語りで二人に出会い直すのにも向いた一作です。臨床犯罪学者と推理作家の二人組に並んで、妃と呼ばれる女性のもとを訪ねてみてください。

有栖川有栖について

有栖川有栖は1959年、大阪市の生まれです。小学生のころから推理作家を志し、同志社大学法学部では推理小説研究会に所属しました。

卒業後は書店に勤めながら書き続け、1989年に『月光ゲーム Yの悲劇'88』でデビューします。1994年に書店を辞め、専業作家になりました。

作品は大きく二つの系列に分かれます。江神二郎が探偵役を務める学生アリスのシリーズと、臨床犯罪学者の火村英生と推理作家の有栖川有栖が組む作家アリスのシリーズです。

2003年に『マレー鉄道の謎』で第56回日本推理作家協会賞、2008年に『女王国の城』で第8回本格ミステリ大賞、2018年に火村英生シリーズで第3回吉川英治文庫賞、2022年に第26回日本ミステリー文学大賞を受けました。2000年から2005年までは本格ミステリ作家クラブの初代会長も務めています。

書誌情報

出版社
光文社
刊行年
2008
ISBN-13
9784334795528
系譜
現代国内 / シリーズ探偵物
受賞歴

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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