同じ席に六人が集う。
忘られぬ死
一年前の晩餐で死んだ妻――再現の食卓で謎に挑む、レース大佐最後の事件。
一年前の晩餐の席で、ひとりの女性が死にました。自分の誕生日を祝う、華やいだ夜のただなかで。
シャンパンを飲み、そのまま毒に倒れて。その死はやがて自殺と判断され、幕は下ります。
ところが一年後、同じ日、同じ場所に、彼女を知る人々がもう一度集まってくるのです。『忘られぬ死』は、いったん終わったはずの死が、時間を置いてふたたび立ち上がってくる物語です。
過去に一度片づいた出来事を、あらためて掘り返す——ミステリーのなかでも、とりわけ手強い形をした謎がここにあります。
アガサ・クリスティーが1945年に発表した長編で、出版社は「複雑な人間関係と巧みなプロット、鮮やかなトリックが冴える中期の秀作」と紹介しています。日本では専用の文庫が編まれるほどに読み継がれてきた書き手ですが、その長い仕事のなかでも、本作は充実した中期に置かれる一作にあたります。
もうひとつ、この作品には来歴があります。もともとは「黄色いアイリス」という短編として書かれた素材を、のちに長編へと発展させたもの。
一度は短い形で決着をつけた着想に、作者がもう一度戻ってきて、長さと厚みを与え直した——そういう成り立ちを持つ作品です。短編一本の枠では出しきれない何かが、この題材には眠っていたということなのでしょう。
物語の入り口
舞台はレストラン〈ルクセンブルク〉。ローズマリー・バートンは、男を虜にせずにはおかない美女でした。
その彼女が、自分の誕生パーティーの席上で、突然この世を去ります。シャンパンを口にし、そのまま毒に倒れて。
彼女のために設けられた華やかな席が、彼女を喪う席に変わるまでに、いくらの時間もかかりませんでした。捜査はやがて自殺という結論に落ち着き、事件はそこで閉じられます。
ひとりの人間がこの世から消えても、書類の上ではそれで話が終わってしまう。そういう終わり方でした。
閉じられたはずのものに、一年後、外から手が伸びてきます。夫のジョージのもとに、匿名の手紙が届くのです。
妻は殺されたのではないか——差出人の知れない紙片は、ただそれだけをほのめかしてくる。名前も根拠も添えられていないたった一枚の紙が、一年かけて固まった「自殺」という説明に、細いひびを入れていきます。
あの夜、あの食卓を囲んでいたのは誰だったか。彼らは何を見て、何を見なかったのか。
妻の死は、本当に妻自身が選んだものだったのか。いったん受け入れてしまった結論をもう一度疑うのは、はじめから疑うよりもずっと骨の折れることです。
ジョージの足もとは、そこで音を立てて揺らぎはじめます。
そして、ローズマリーを回想する六人の男女が、一年前と同じ日、同じ場所にふたたび集います。同じレストラン、同じ食卓。
一年という時間だけを挟んで、あの夜がもう一度そこへ置き直されるのです。同じ日付、同じ席、同じ顔ぶれ。
条件をひとつずつ揃えていくその手つきは、どこか儀式めいてすらいます。誰が何を思い出し、誰が何を思い出すまいとしているのか。
そして、この再現の食卓で新たな悲劇の幕が上がった——出版社の紹介がそう告げるとおり、穏やかに始まったはずの一夜は、ここから一気に張りつめていきます。
読みどころ
読みどころは、過ぎ去った一夜を、人の記憶だけを頼りに組み立て直していく、その手つきにあります。 一年前のあの晩餐に、読者は居合わせていません。
何が起きたのかを知る手立ては、その場にいた人々が語ることのなかにしかない。読者は、証言と回想の断片を拾い集めながら食卓のまわりをぐるりと歩き、一年前の一夜を頭のなかで組み上げていく位置に立たされます。
同じ夜を語っているはずなのに、語る人が変われば、見えていたものも変わる。像はそのたびに輪郭を揺らし、確かなはずの土台が少しずつ怪しくなっていきます。
そこで効いてくるのが、公式の紹介が真っ先に挙げる「複雑な人間関係」です。ひとつの食卓を囲む顔ぶれのあいだには、外からは見えない糸が幾重にも張られている。
誰と誰がどうつながっているのかを読み解く作業が、そのまま謎解きの作業になっていく——この重なりが、本作の骨格をなしています。紹介文はもうひとつ、「鮮やかなトリックが冴える」とも言い切ります。
その冴えがどこに宿るのかは、最後の一行までたどり着いた人だけが受け取れるものです。
こんな人におすすめ
相性でいえば、派手な追跡や暴力の場面を求めて開くと、この作品は静かに映るかもしれません。主戦場はあくまで食卓と会話、そして人の記憶です。
逆に、限られた登場人物のあいだに張りめぐらされた関係を、読みながら少しずつ地図にしていく——そういう読み方を好む人には、これ以上ないほど噛みごたえのある一冊になります。端正で少し古風な語り口も、黄金期の英国ミステリーならではの味わいとして、じっくり楽しめるはずです。
手に取るなら
いま手に取るなら、ハヤカワ・クリスティー文庫で読めます。短編を長編へと育て直したという成り立ちを頭の隅に置いておくと、一場面ごとの密度の高さがいっそう際立つはずです。
忘れられたはずの死が、なぜ忘れられずに戻ってくるのか。その意味が腑に落ちたとき、この一夜の食卓は、もうただの食卓ではなくなっています。
アガサ・クリスティーについて
アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。
1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。
生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。
1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。
書誌情報
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