黄金期米国古典 1949
殺す相手は誰でもいい。
残るのは首の絹紐。
『九尾の猫』エラリー・クイーン

書評

九尾の猫

接点なき被害者を絹紐で襲う連続殺人。NYを舞台にしたクイーン後期の代表作。

九尾の猫 表紙画像
エラリー・クイーン 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) 原書 1949年 · 邦訳 2015年
目次

〈猫〉が通りすぎたあとに残るものは、たった二つ。死体と、その首に巻きついた絹紐だけです。

名も顔も知れない絞殺魔が、ニューヨーク全市を震え上がらせていく。1949年に発表された『九尾の猫』は、この〈猫〉と名探偵エラリイの息づまる頭脳戦を描いた一編です。

手当たり次第としか見えない殺しの連なりに、はたして一本の筋道は通っているのか。読み手はその問いを抱えたまま、街ごと暗がりへ引きずり込まれていきます。

物語の入り口

事件の異様さは、残されるものの少なさにあります。〈猫〉は手当たり次第に人を殺していく。

通りすぎたあとに残るのは、死体と、首に巻きついた絹紐——ほかには何もありません。凶器は語らず、現場は何も明かさない。

犠牲になった人々のあいだに接点らしい接点は見あたらず、次に誰が選ばれるのかを教えてくれる法則も浮かんでこない。だからこそニューヨークは、全市を挙げて震撼することになります。

自分は無関係だと、誰にも言い切れないのですから。

捜査は、手がかりの乏しさそのものとの戦いになります。ふつうの殺人事件なら、被害者の人生をたどっていけば、やがて犯人へ通じる糸が見えてくる。

ところがこの事件では、被害者たちを結ぶ糸そのものが、なかなか浮かび上がってきません。積み上がっていくのは犠牲だけで、犯人の像はいっこうに結ばれない。

エラリイが探し求めるのは、ばらばらに見える殺人をつないでいるはずの「鎖の輪」です。それが見つからないかぎり、〈猫〉は輪郭を持たない影のまま、街を歩きつづけます。

ここで読者が立たされるのは、探偵の一歩うしろ、同じ暗がりのなかです。名探偵ものの多くは、手がかりが出そろうのを待つ楽しみで読ませる。

けれど本書が差し出すのは、その手前の段階——推理の足場になる材料そのものが見つからない、宙ぶらりんな時間の緊張です。何も見えない、それでも〈猫〉は動いている。

この焦燥に付き合わされるうちに、いつのまにか頁をめくる手が速くなっていることに気づくはずです。相手はこちらの理屈を嗤うかのように沈黙を守り、それでも探偵は考えることをやめません。

息づまる頭脳戦という惹句は、少しも大げさではないのです。

読みどころ

読みどころは、手がかりが枯れ果てた地点から、それでも論理を立ち上げていく粘りにあります。 限られた顔ぶれと限られた空間があらかじめ与えられ、その内側を丹念に検分していくタイプの謎解きではありません。

舞台は大都市そのもの。見晴らしの悪い荒野のような場所に立って、なお謎解きの筋を通そうとするところに、この作家の意地があります。

名探偵に身を任せる古典的な愉しみは、こうした極限に置かれたときにこそ、いちばん濃く出るものです。

もうひとつは、恐怖の描かれ方でしょう。姿の見えない脅威が都市全体を覆っていくという構図は、いまでこそ数えきれない小説や映画が扱ってきました。

けれど、本書が書かれたのは1949年。そう思い出した瞬間に、この作品が立っている場所の新しさが見えてきます。

黄金期の名探偵が、のちに一大ジャンルとなる恐怖の型と正面から向き合っている。ミステリの歴史が折れ曲がる地点に立ち会うような感触があり、それは読み終えたあとも長く残ります。

こんな人におすすめ

名探偵の推理に身を委ねる古典の読み心地を求める読者には、まっすぐ薦められる一冊です。事件そのものと同じくらい、大都市を丸ごと描き出そうとする筆致——そこに付き合える人ほど、本書は深く刺さる。

逆に、序盤から手がかりが小気味よく並べられ、それを整理していく快さを期待して開くと、前半の見通しの悪さはもどかしく映るかもしれません。ただ、その霧の濃さは欠点ではなく、本書が選び取った主題そのものです。

晴れない視界のまま進むしかない時間に耐えること——それがそのまま読書の醍醐味になっている、そういう一冊だと思って向き合うのが、いちばん報われる読み方だと言えます。

作品の背景

本書は、エラリー・クイーンが1949年に世に出したニューヨークもの——後期を代表する一作です。論理で犯人を指し示す名探偵ものの王道を歩んできた作家が、都市そのものが怯えるような無差別の殺人という題材へ足を踏み入れた。

のちのサイコキラーものの先駆として論じられることがあるのも、そのためです。名探偵の謎解きという古典の骨格を保ったまま、扱う恐怖の質だけが一足先に現代へ届いている。

その居心地の悪い新しさが、いまも本書を古びさせません。

手に取るなら

いま手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫から出ている越前敏弥による新訳(2015年)。原書の刊行は1949年ですから、七十年以上を隔てた古典が、いまも読みやすい形で書店の棚に並んでいることになります。

エラリー・クイーンが積み上げてきた名探偵ものの技術と、時代の一歩先を行く題材とが正面からぶつかった、後期の代表作。頭脳戦を最後まで浴びるように読みたい夜に、迷わず開いてよい一冊です。

エラリー・クイーンについて

エラリー・クイーンは、フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)、いとこ同士の二人が用いた合作のペンネームです。作中で謎を解く名探偵にも、同じ名が与えられています。

二人は1928年、出版社と雑誌が募った長編の懸賞に『ローマ帽子の謎』を投じ、翌1929年の刊行でデビューしました。以後、題名に国名を冠した〈国名シリーズ〉を書き継ぎ、1932年から翌年にかけてはバーナビー・ロス名義でドルリー・レーン四部作も発表しています。

ダネイは1941年に〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉を創刊して長く編集にあたり、多くの書き手を世に送り出しました。二人はアンソロジストや短編ミステリの研究者としても仕事を残し、1961年にはアメリカ探偵作家クラブ(MWA)のグランドマスター賞を受けています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ミステリ文庫
原書刊行年
1949
邦訳刊行年
2015
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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