ミステリーとしての読みどころ
嘘を見破る少女がいる、と聞かされたとき、まず胸をよぎるのは「それは厄介だ」という感触ではないでしょうか。『天使と嘘』は、その厄介さを物語の中心に据えた英国の心理サスペンスです。
かつて異様な殺人現場で発見され、イーヴィと呼ばれるようになった少女。彼女と施設で向き合うことになる臨床心理士のサイラス。
人の嘘が見える少女と、人の心を読み解くことを職業に選んだ男。似た方角を向いているようでいて、立っている場所がまるで違う二人の邂逅から、物語は静かに動き出します。
著者について
著者はマイケル・ロボサム。原書は2019年、『Good Girl, Bad Girl』の題で世に出ました。
この作品は英国推理作家協会賞ゴールド・ダガーを受賞し、世界各国で激賞されています。日本語で読めるようになったのは2021年、早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫から上下巻として。
原書の刊行から二年ほどで書店に並んだことになり、評価の広がりの速さがそのまま伝わってくる歩みです。そしてこれは、サイラスとイーヴィを軸にしたシリーズの第1作にあたります。
単発の事件譚として閉じるのではなく、この二人との長い付き合いがここから始まる、その出発点に置かれた一冊です。
物語の起点にあるのは、施設でのささやかな面会です。かつて異様な殺人現場で発見された少女は、イーヴィという名で呼ばれています。
臨床心理士という肩書きは、他人の心の内側に立ち入ることを職業として許された、少しばかり特権的な立場です。サイラスはその立場から彼女に会いにいく。
ところが、対面の主導権は最初の一言から揺らぎはじめます。イーヴィには、人がついた嘘を見破るという特殊な能力があるからです。
問う側と問われる側、診る側と診られる側。向きの決まっているはずのその関係が、この一点だけで裏返ってしまう。
専門家として言葉を選び、間合いを測り、必要とあれば穏当な方便で場をつくる——そうした職業上の作法が、彼女の前ではまるごと透けてしまいます。だからここでの会話は、何を訊き出すかより、何を隠さずにいられるかを問うものになる。
読者もまた、サイラスの一言ごとに「今のは本心だろうか」と自分でも検分しはじめる位置に立たされます。二人のやりとりを外から眺めているつもりが、いつのまにか同じ試験を受けさせられている——そんな居心地の悪さが、序盤から静かに効いてきます。
折しも、スケートの女子チャンピオンが惨殺されるという事件が起こります。将来を期待され、順風のただなかにいたはずの選手に、いったい何が起きたのか。
捜査に加わったサイラスは、イーヴィとともにその真相を追いはじめます。ひとつは、施設で出会った少女と言葉を交わす仕事。
もうひとつは、輝かしい経歴を持つ被害者の死をたどる仕事。どちらも人の内側を覗き込む作業でありながら、手触りはまるで違う。
その二つを同時に抱えたサイラスの視界を通して、読者は物語の奥へ進んでいくことになります。
読みどころ
読みどころは、嘘の通じない相手と交わす会話が、一手ごとに帯びていく緊張にあります。 診察という形をとりながら、たがいに探り合っていることは双方が承知している対話。
そこでは、沈黙や言い淀み、話題を変えるタイミングまでが情報として立ち上がってきます。心理サスペンスとしての手つきの確かさは、この会話の呼吸をどこまで細かく描き分けられるかにかかっていて、本書はそこに惜しみなく紙幅を割いています。
惨殺された選手をめぐる捜査という骨太な筋と、少女と一対一で座る閉じた筋。そのどちらでも、人が口にした一言と、口にしなかった一言の両方に耳を澄ませることになります。
もうひとつは、凸凹コンビの造形です。年齢も立場も、世界の見え方も違う二人が、噛み合わないまま並んで歩く。
その不揃いさを、ひとつのチームが形になっていく過程として書ききってしまうところに、この作家の温度があります。シリーズの幕開けにあたる巻ですから、二人の距離感がどう定まっていくのかを目撃できるのは第1作だけの特権。
ここから読みはじめる意味は、思いのほか大きいと言えます。
こんな人におすすめ
相性で言えば、人物の内面をゆっくり掘り下げていく語りを楽しめる読者にはよく届く一冊です。逆に、捜査の進行そのものをテンポよく追いたい読者には、対話の場面がやや長く感じられるかもしれません。
上下巻という分量も、腰を据えて付き合う覚悟があってこそ生きるもの。裏を返せば、二冊ぶんの時間をかけて人物のそばに居続けられる作品はそう多くありません。
若い被害者が惨殺されるという事件を扱う以上、痛ましさの気配は全編に漂いますし、施設という舞台が背負う重さもあります。そうした重さを受け止めながら、人の心の複雑さに付き合いたい——そんな気分のときに開くのがちょうどよい作品です。
手に取るなら
入手はハヤカワ・ミステリ文庫の上下巻で。世界各国で激賞され、英国推理作家協会賞ゴールド・ダガーに輝いた作品が、文庫で手に取れるのはありがたいところです。
サイラスとイーヴィのシリーズはここから始まりますから、どこから読むべきかで迷う必要はありません。二人の出会いの一部始終を最初から追えるという点でも、第1作を選ぶ意味はしっかりあります。
現代の英国ミステリがいま届けている読み味を確かめたい人にとって、まず開いてみる価値のある一冊です。