探偵の結論は「虚数解」。
聖女の救済
動機のある妻には崩しようのないアリバイがある。物理学者・湯川学が出した結論は「虚数解」だった。
男が自宅で毒殺されたとき、動機のある妻には、鉄壁のアリバイがあった。『聖女の救済』の入り口は、それだけです。
そして湯川学が導き出した結論は、虚数解。書かれたのは、『容疑者Xの献身』が直木賞と本格ミステリ大賞を受けた直後です。
シリーズがもっとも注目を集めていた時期に、その次の長編として世に出ました。動機のある人物は、最初から目の前にいる。
それでも事件が解けない。その枠組みそのものが、本作の看板です。
物語の入り口
ガリレオと呼ばれる物理学者・湯川学が初めて登場したのは、1998年の『探偵ガリレオ』です。警視庁捜査一課の草薙俊平が、説明のつかない事件にぶつかるたびに、大学の友人である湯川を訪ねる。
その関係から、ガリレオシリーズは始まりました。
男が、自宅で毒殺されました。動機のある人物は、最初から目の前にいます。
妻です。ところがその妻には、鉄壁のアリバイがあった。
動機はある。しかし、不可能である。
事件の枠組みは、それだけです。
男の自宅、毒、そして動機のある妻。道具立てはこの三つきりです。
誰が、どうやって、なぜ。ふつうなら少しずつ明かされていく要素のうち、先に差し出されているのは、動機のある妻にアリバイがある、という一点だけです。
それで十分なのです。実際、その一点だけで、湯川学が登場するこの物語の緊張は最後まで持ちます。
多くを語らない入り口が、かえってこの一冊の自信を伝えています。
そして、湯川学が導き出した結論は、虚数解。この語が、そのまま看板に掲げられています。
物理学者らしい、冷たい言葉です。物理学者が、事件に対して出した答えが、虚数解だった。
数学の言葉が、殺人事件の答えとして置かれています。ただ、その語が看板に置かれている以上、湯川がこの事件をどう見たのかが、この物語のいちばんの読みどころであることは確かです。
読者は、動機のある妻と、鉄壁のアリバイのあいだに立たされます。疑う理由は、最初からある。
疑えない理由も、最初からある。その二つが両立したまま、物語は進みます。
湯川学が、そこにどう切り込むのか。虚数解、という一語に辿り着くまでの道筋を、読者は物理学者の隣で追うことになります。
読みどころ
動機のある妻に、鉄壁のアリバイがある。物語の問いは、はじめからこの一点に据えられています。
犯人候補を絞り込む楽しみではなく、目の前の一人と鉄壁のアリバイをどう考えるか。問いは最初から一点に集中しています。
物理学者の湯川学が事件に向ける目も、この一点だけに注がれます。容疑者を並べて見比べる手間がないぶん、考える道筋そのものが紙面の中心に出てきます。
もうひとつは、虚数解という言葉です。この語がそのまま看板になっている、ということは、この語に辿り着くまでの過程が、物語の核だということです。
毒殺、動機、アリバイという古典的な道具立てのなかに、物理学者の結論として、数学の用語がひとつだけ差し込まれている。その取り合わせが、看板として際立っています。
読み終えたとき、この二文字が持つ重さは、読む前とは別のものになっています。
こんな人におすすめ
一点に絞られた問いを腰を据えて考えたい読者、科学者を探偵役に据えたミステリを好む読者に向いています。『容疑者Xの献身』でガリレオシリーズに入った人には、湯川学の次の事件として、そのまま手を伸ばしてよい順路にあります。
逆に、多くの容疑者のなかから犯人を探す楽しみを求める気分のときには、この一点集中は少し窮屈に感じられるかもしれません。その窮屈さが、そのまま強さでもあります。
一点に集中するからこそ、論理の切れ味が際立ちます。
作品の背景
ガリレオシリーズが長編に踏み出したのは『容疑者Xの献身』からで、本作はその次に置かれた一作、シリーズ第5作です。前作が第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けた直後という、もっとも注目の集まる位置で書かれた一冊でした。
単行本は2008年に文藝春秋から。現行版は2012年4月刊の文春文庫で、432ページ。
英語版は Salvation of a Saint の題で2013年に刊行され、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、フィンランド語、ギリシャ語、エストニア語、インドネシア語、中国語などにも翻訳されています。シリーズ累計は1700万部を超えます。
手に取るなら
現行版は文春文庫。ガリレオシリーズの第5作ですが、この巻単独でも筋は追えます。
『容疑者Xの献身』の次の長編ですから、その順に読むのが自然です。動機のある妻と、鉄壁のアリバイ。
そして、虚数解。三つの言葉を胸に、湯川学の隣に座ってみてください。
読み終えたあと、虚数解という言葉を、もう一度口にしたくなるはずです。
東野圭吾について
東野圭吾は1958年、大阪市生野区の生まれです。大阪府立大学工学部電気工学科を卒業し、日本電装(現デンソー)の技術者として働きながら推理小説を書き、1985年に『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受けてデビューしました。
翌年に会社を辞めて上京し、専業作家になっています。
長く大きな話題作に恵まれない時期が続きましたが、1998年の『秘密』が広く読まれ、翌年の第52回日本推理作家協会賞(長編部門)を受賞しました。2006年には『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受けました。
刑事・加賀恭一郎と物理学者・湯川学のシリーズを軸に、学園もの、本格の謎解き、サスペンス、ミステリの約束事を笑うパロディまで幅広く書き、2023年には著作の国内累計発行部数が1億部を超えています。同じ年に菊池寛賞、2024年に日本ミステリー文学大賞を受け、2026年7月に68歳で亡くなりました。
書誌情報
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