黄金期米国古典 1942
全員が見ていた。
なのに犯人が分からない。
『家蝿とカナリア』ヘレン・マクロイ

書評

家蝿とカナリア

衆人環視の舞台で起きた殺人を、精神科医ウィリング博士が解き明かす一作。

家蝿とカナリア 表紙画像
ヘレン・マクロイ 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1942年 · 邦訳 2018年
目次

初日の幕が上がり、満場の観客が舞台に見入っている。まさにその衆人環視のただ中で、大胆不敵な殺人がなしとげられます。

誰もが目を凝らしていたはずの舞台の上で、なぜ兇行は成功してしまったのか。本書『家蝿とカナリア』が読者に差し出すのは、その一点に凝縮された、純然たる犯人捜しの醍醐味です。

物語の入り口

精神分析学者ベイジル・ウィリングは、ある魅惑的な主演女優から、公演の初日に招かれます。時は第二次大戦下。

戦時の緊張が空気を張りつめさせる時代にあって、それでも劇場の中だけは、幕開けを待つ特別な熱を帯びています。楽屋には多彩な演劇人たちが行き交い、それぞれの野心や見栄、初日ならではの気負いと不安をたずさえて、たった一夜のために神経を研ぎ澄ませている。

華やかな表舞台と、その裏でせめぎ合う生々しい人間模様。マクロイは、戦時下の劇場という一つの世界を、その光と影ごと、隅々まで描き出していきます。

ところが、この華やかな初日を前に、劇場の周辺では奇妙な出来事が続けざまに起こりはじめます。何が起きているのか、それがこの先どこへつながっていくのか。

事情はいっこうに判然とせず、輪郭のつかめない不穏さだけが、じわじわと濃くなっていく。招かれた客であるはずのウィリングは、そのざわめきを敏感に感じ取りながら、初日の幕が上がるのを見守ることになります。

そして、幕が上がる。満場の観客が固唾をのんで舞台に見入るなか、大胆不敵な殺人が、あろうことか全員の目の前でなしとげられるのです。

人けのない深夜でもなければ、閉ざされた密室でもない。客席じゅうの視線がまっすぐ注がれた、これ以上ないほど開かれた場所での兇行。

読者は観客席のただ中に座らされ、誰もが確かに見ていたはずのその光景の、いったいどこに死角があったのかを問われることになります。舞台の上で起きた謎に、人の心を読む精神科医が挑む。

物語はここから、正面きった犯人捜しへと踏み出していきます。

読みどころ

衆人環視という、これ以上なく不利な条件のもとで練り上げられた計画殺人。それに真っ向から挑むベイジル・ウィリングの推理こそが、本書の背骨です。

手がかりは読者の前に公平に配され、博士の推理は積み上げられた事実の上にだけ築かれていきます。奇を衒った趣向で不意を突くのではなく、正面から論理を通して犯人を追い詰めていく。

その古典的な謎解きの手ざわりを、本書はまっすぐに味わわせてくれます。

紹介後の評価の高さも、この完成度を裏づけています。「2003本格ミステリ・ベスト10」海外ランキング第3位、〈週刊文春〉2002年傑作ミステリーベスト10海外部門第4位、『IN★POCKET』文庫翻訳ミステリーベスト10作家部門第5位。

発表から半世紀以上を経て邦訳されてなお、複数のランキングで上位に食い込んだという事実が、その謎解きの強さを何より雄弁に語っています。

名探偵の推理に身を委ねる、古典的な謎解きが好きな読者には迷わず薦められる一冊です。とりわけ、劇場や舞台の空気を吸いながら物語に入っていきたい人、混じりけのないフーダニットをじっくり味わいたい人には、これ以上ない誂えでしょう。

逆に、血なまぐさい暴力描写や現代的なスピード感を期待して開くと、その端正な運びは少し古風に映るかもしれません。けれど、その端正さこそが黄金期米国本格の美質であり、腰を据えて謎と向き合う時間を求める読者にこそ、深く応えてくれる作品です。

作品の背景

『家蝿とカナリア』は、『暗い鏡の中に』『幽霊の2/3』といった代表作を残したヘレン・マクロイの、脂の乗りきった時期に書かれた作品です。原書の刊行は1942年、第二次大戦のさなかのことでした。

手に取るなら

現在手に取るなら、創元推理文庫の一冊(深町眞理子訳)がそれにあたります。訳者の深町眞理子は、ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』やクリスティ『ABC殺人事件』、ブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』、ジャクスン『くじ』などを手がけてきた英米文学翻訳家。

名手の日本語で読める点も、本書を勧めやすくしています。ウィリング博士の活躍は『暗い鏡の中に』『幽霊の2/3』といった作品でも楽しめるので、本書で相性を確かめたら、そのままシリーズを渡り歩くのもいいでしょう。

黄金期のアメリカが生んだ端正な犯人捜しの一典型として、長く読み継がれるにふさわしい謎解き小説です。

ヘレン・マクロイについて

ヘレン・マクロイ(1904〜1994)は、ニューヨーク生まれのアメリカの作家です。1923年にフランスへ渡ってソルボンヌ大学に学び、その後も通信社の仕事や美術評論で筆をとりながら、1932年に帰国するまでヨーロッパで過ごしました。

1938年、長編『死の舞踏』でデビューし、同作で精神科医ベイジル・ウィリング博士を探偵役として登場させます。人の心の動きを手がかりに事件を読み解くこの博士は、以後十三作の長編で活躍しました。

ウィリングものと並んで、博士の登場しないノンシリーズの作品も手がけています。1946年には作家ブレット・ハリデイと結婚しました(のちに離婚)。

1950年には女性として初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長を務め、1990年には同クラブのグランドマスター賞を受けています。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1942
邦訳刊行年
2018
ISBN-13
9784488168049
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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