待つ親友は殺人の容疑者。
ロマンス
昭和8年の華族社会を舞台に、親友の殺人容疑から始まる長篇ミステリ。
昭和8年、上野のカフェー。殺人の容疑をかけられた親友に呼び出されて、麻倉清彬はそこへ出向きます。
ロシア人の血を引く子爵。それが彼の肩書きです。
柳広司『ロマンス』は、昭和初期の華族社会を舞台にした長編で、2011年に文藝春秋から刊行され、文春文庫を経て、2026年4月に角川文庫に入りました。このカフェーへの外出を境に、清彬の日々は取り返しのつかない方へ動きだします。
物語の入り口
麻倉清彬は子爵です。昭和8年、華族の家に生まれた青年には、職に就く必要がありません。
明日の暮らしを心配することもない。その代わりに、時間だけが余っています。
清彬の日々は、その余った時間のなかにあり、社交の場と屋敷のあいだを行き来しながら過ぎていきます。
そこへ、親友からの呼び出しが届きます。親友は殺人の容疑をかけられており、清彬を呼び出しました。
指定された先は上野のカフェー。清彬は出向きます。
退屈を破る、ちょっとした頼まれごとのつもりで。ところが、頼まれごとで終わるはずの外出は、そこで終わりません。
カフェーの席に着いた時点で、清彬の日々はもう元には戻らない方向へ動きはじめています。
親友がなぜ自分を呼んだのか。容疑はどこから来たのか。
清彬が確かめようとするのは、そういう身近な問いです。ただし舞台は華族社会で、問いを向ける相手は、同じ社会に生まれついた人々です。
身内の言葉は、外の人間の言葉より読みにくいものです。
本作は、事件を追い立てるようには進みません。社交の場の会話、屋敷のなかの沈黙。
そうした時間に紙幅が割かれ、事件はその合間から顔を出します。会話が続き、途切れ、また続く。
華族社会の物語は、言葉より間で進むところがあり、この物語もその速度で書かれています。急ぐ読み方をすると、屋敷の空気や社交の手ざわりを通り過ぎてしまいます。
ゆっくり読む本だと、最初に決めておくのがよい一冊です。
読みどころ
『ジョーカー・ゲーム』と同じ時代を、正反対の場所から描いています。 あちらの登場人物は、国家のために存在を消す者たちでした。
こちらの登場人物は、国家の中心に生まれ、存在を消すどころか、生まれた瞬間から名前と家格を背負っています。同じ昭和の空気を吸いながら、一方は影に、一方は光のなかにいる。
あちらでは名前を捨てることが仕事の前提で、こちらでは名前を捨てられないことが生の前提です。二冊を並べて読むと、時代の輪郭が両側から見えてきます。
華族社会の描き方にも、この本の柱があります。余った時間と社交で日々が埋まっていく世界を、この本は外から断罪するのでもなく、内から美化するのでもなく、そこに生まれついた青年の目の高さで描きます。
清彬にとって、それは選んだ世界ではなく、生まれたら既にそこにあった世界です。その当事者の目線が、華族社会という題材に、ただの背景以上の重みを与えています。
そしてミステリとしての骨格が、その重みに埋もれずに立っています。物語の起点は、あくまで親友にかけられた殺人の容疑です。
華族の暮らしを描く場面が続いても、その容疑から始まった出来事が、清彬の退屈な日々を動かしていきます。
作品の背景
『ロマンス』は、柳広司の『ジョーカー・ゲーム』と同じ昭和初期を扱っています。ただし、立っている場所がまるで違います。
陸軍のスパイ養成学校を扱った『ジョーカー・ゲーム』が描いたのは、国家の外側で影として働く者たちでした。こちらが描くのは、国家のもっとも内側に生まれついた者たちです。
時代の空気は同じで、そこに置かれた人間の位置だけが反転しています。
刊行は2011年4月25日、文藝春秋からの単行本で、四六判272ページ。2013年11月8日に文春文庫へ入って320ページになり、2026年4月24日には角川文庫からも刊行されました。
文藝春秋の単行本から数えて15年のあいだに、三つの形で出ています。
手に取るなら
現行版は2026年4月刊の角川文庫で、文春文庫版(320ページ)も流通しています。『ジョーカー・ゲーム』を読んだ人には、同じ時代の裏面として。
あちらで影から眺めた昭和を、今度は真ん中から眺め直すことになります。読んでいない人には、昭和初期の華族社会を舞台にした長編として、そのまま。
事件の速度を求める人より、会話と沈黙の時間を楽しめる人に向いた本です。読む速度を落とせる夜に開くのが似合う本です。
昭和8年、上野のカフェーで親友が待っています。清彬が席に着くところから、話は始まります。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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