満州の撮影所で本物の事件。
幻影城市
国策映画の撮影所で、探偵映画の脚本づくりと並行して不可思議な事件が起きていく長編。
作り物をこしらえるための場所で、本物の事件が起きる。柳広司『幻影城市』の面白さは、その一点に集まっています。
舞台は1942年の満州・新京、東洋一とうたわれた撮影所「満映」です。脚本家志望の若者が、探偵映画の脚本を練りはじめる。
その作業と並行するように、撮影所では不可思議な事件が起きていきます。2013年に『楽園の蝶』の題で出た単行本を、2018年の文庫化にあたって改題し、大幅に加筆した決定版です。
物語の入り口
時代は1942年、場所は満州・新京。原野に線を引いて設計された人工の都で、郊外には東洋一とうたわれた撮影所がそびえていました。
満州映画協会、通称「満映」。国策のために作られ、国策のために映画を量産するこの映画の都は、「幻影城市」と呼ばれていました。
欺瞞と虚飾でできた張りぼての街、という含みを持つ名前です。
そこへ、脚本家志望の若者・朝比奈英一がやってきます。制約だらけの日本にいたたまれず、海を渡って満映の扉を叩いた。
ところが、書いて出すメロドラマは、ドイツ帰りの若い女性監督・桐谷サカエに「この満州では使い物にならない」と突き返されるばかりです。何本出しても、答えは同じ。
やがて彼女の指示で、朝比奈は現地スタッフの陳文と二人で、探偵映画の脚本を練りはじめます。メロドラマの書き手が、探偵映画に転じる。
それだけでも慣れない仕事なのに、その作業と並行するように、撮影所では不可思議な事件が次々と起きていきます。机の上で事件を組み立てている人間の周りで、本物の事件が動きはじめる。
作り物と本物が同じ敷地のなかにある、という状況が、この長編の器です。
街を歩いているのは、架空の人物ばかりではありません。満映理事長の甘粕正彦、七三一部隊を率いた石井四郎。
歴史の教科書に名前のある実在の人物が、怪人めいた存在感で登場します。史実の名前と架空の事件が同じ画面に収まると、どこまでが記録に残っていることなのか、読みながら判断が揺れます。
その揺れ自体が、幻影の街という舞台と響き合っています。
読みどころ
読みどころは、歴史小説として読んでも、謎解きとして読んでも、どちらの側からも取っ掛かりがあるところです。 満映という場所は、それ自体が歴史の教材です。
国策と映画、宣伝と娯楽、帝国と植民地。そのすべてが一つの敷地に集まっていて、朝比奈の目を通して、その敷地の内側を歩くことになります。
歴史に興味のある人は、この撮影所の描写だけで元が取れます。1942年という年は、日本にとって戦争のただなかです。
その年に、満州の人工都市で映画が量産されていた——その事実そのものが、この本の土台です。
謎解きとして読む人には、事件の置かれ方が効いてきます。撮影所は、嘘の街並みを建て、嘘の物語を回し、嘘の感情を演じる場所です。
そこで起きる本物の事件は、嘘の山のなかから本物だけを拾い出さなければ解けません。嘘を作る場所で本物を見分ける、という条件が、この長編の謎解きに独特の緊張を与えています——真相の輪郭がはっきりしない時代に、それでも筋を通して考えようとする人間の姿が、そこにあります。
そして、改題と加筆の決定版であること。単行本から5年をかけて手を入れ直し、題名を街の呼び名そのものに変えた。
作家がこの作品に費やした時間の長さが、文庫版の厚みになっています。
作品の背景
言論や表現が上から握られている時代に、人がどう頭を使うか。柳広司のその関心が、この作品では映画製作という表現の現場へ向けられています。
国策映画の撮影所という設定は、その関心を置くのにこれ以上ない場所でした。
刊行の経緯は少し込み入っています。単行本は2013年6月21日に講談社から、『楽園の蝶』の題で出ました。
四六変型322ページです。2018年10月16日に講談社文庫へ入るとき、『幻影城市』と改題され、大幅な加筆で368ページに増えました。
手に取るなら
現行版は講談社文庫、368ページ。旧題『楽園の蝶』の単行本を読んだ人にも、加筆された文庫版が決定版です。
『ジョーカー・ゲーム』を読んだ人には、同じ時代の別の現場として。満州という土地と時代に興味のある人には、そのまま。
映画に興味のある人にも向いています。国策で映画を作るとはどういうことか、その現場の空気が、脚本家志望の若者の目で描かれています。
1942年の新京へ、朝比奈と一緒に海を渡ってみてください。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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