市民の情熱と欲望だ。
パルテノン アクロポリスを巡る三つの物語
神殿と民主制に託された情熱をたどり、古代アテナイの人間模様に近づく。
主役は、ひとつの都市です。紀元前5世紀、ペルシア戦争に勝ち、民主制を手に入れ、パルテノン神殿を完成させたアテナイ。
柳広司『パルテノン アクロポリスを巡る三つの物語』は、その栄華の時代を、神殿や制度の側からではなく、それを望んだ人間の側から描いた三編の歴史小説集です。
物語の入り口
時は紀元前5世紀。アテナイは、ペルシアという大国との戦争に勝ったばかりです。
勝った都市は、政治の形を民主制に改め、丘の上に神殿を建てはじめます。パルテノン神殿。
アクロポリスの丘に、いまも柱を残すあの建物です。戦争の勝利、市民が政治を担う制度、そして神殿。
三つが同じ世紀の同じ都市に揃った時代を、本書は舞台に選びました。三編はどれも、その神殿と、その丘を巡って書かれています。
表題作「パルテノン」が見つめるのは、神殿を建てる側の人間です。都市国家の未来に希望を託し、究極の美を追究した市民たちの、情熱と欲望の物語です。
希望と美、情熱と欲望——澄んだ語と生々しい語が、同じ一編のなかで並んでいます。希望と美だけなら、神殿は晴れがましい記念碑に見えます。
そこへ情熱と欲望が加わると、同じ石の積み上げが、人の思惑の重なりとして見えてきます。神殿を建てるのは、信仰だけではありません。
都市の未来をこう描きたいという政治の望みと、これ以上ないものを作りたいという美の望みとが、同じ石の上で重なり合っています。表題作の中心にいるのは、その二つの望みを胸に、都市の未来と究極の美とを追った市民たちです。
神殿は、完成すれば信仰の場になります。けれども建てている最中には、政治の場でもあり、情熱と欲望の行き交う場でもある。
表題作が描くのは、その途中の時間です。読者は、建設のさなかにある都市の市民の隣に立たされます。
完成した神殿を仰ぎ見る観光客の位置ではなく、まだ石が積まれている途中の丘を、ふもとから眺める位置です。残る二編は「巫女」と「テミストクレス案」です。
読みどころ
本書が一貫して見つめているのは、大きな歴史を動かした、小さな望みの持ち主たちです。
ペルシア戦争、民主制、神殿の造営。教科書に太字で載る事柄が、本書ではどれも、誰かが何かを望んだ結果として置かれています。
神殿は美の到達点であると同時に、都市の未来をめぐる政治の産物でもある。表題作はその二重性を、建てる側の人間の欲望として書きました。
石の建築を見上げるのではなく、それを望んだ人の顔を見る。神殿の柱を数える本ではなく、柱を立てたいと望んだ人の数を数える本です。
戦争に勝った都市が、次に何を建て、どんな制度を選ぶのか。その選択の一つひとつに、市民の希望と欲望が張りついています。
希望という語には未来を向いた明るさがあり、欲望という語には手元へ引き寄せる生々しさがある。表題作は、その両方を同じ市民の胸のなかに置いています。
歴史小説としての厚みは、その視線の低さから来ています。
もうひとつは、舞台の選び方です。紀元前5世紀のアテナイは、戦争の勝利と、市民が政治を担う制度と、丘の上の神殿とが、ひとつの世紀に重なった都市でした。
三つのどれも、ひとりの英雄の手柄として語れるものではありません。大勢の市民が何かを望み、その望みが寄り集まって、はじめて形になったものです。
本書が人物ではなく都市を主役に据えたのは、その重なりを正面から書くための構えになっています。民主制を手に入れた市民が、同じ手で究極の美を求める。
政治の望みと美の望みが、一つの都市のなかで押し合う景色が、この本の舞台の厚みになっています。
ペルシア戦争も民主制も遠い言葉に聞こえる読者には、はじめの数頁が少し重く感じられるかもしれません。けれども、遠い時代の建築や政治の背後に、生きた人間の望みを見たい読者には、この三編の視線の低さこそが読む理由になります。
作品の背景
本作は2004年の刊行です。のちに『ジョーカー・ゲーム』を書く柳広司の、その手前の仕事にあたります。
ひとりの人物ではなく、ひとつの都市を主役に据えた三つの物語で、表題作に「巫女」「テミストクレス案」を加えた三編を一冊に収めています。
手に取るなら
現行版は実業之日本社文庫で、三編を一冊に収めています。『ジョーカー・ゲーム』で柳広司を知った読者にとっては、その手前の仕事へ遡る一冊になります。
表題作「パルテノン」から順に開けば、まず神殿を建てる側の市民たちの隣に立つことになります。紀元前5世紀の遠い都市も、何かを望む人間の側から入れば、思いのほか近い場所に見えてきます。
丘の上に石が積まれていく、その途中の時間へ。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
柳広司をもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本