漱石は名探偵のつもり。
吾輩はシャーロック・ホームズである
自分をホームズだと信じる漱石が事件に挑む、文学好きの好奇心をくすぐる一冊。
文豪が、名探偵を自認しています。イギリス留学中、心を病んだ夏目漱石は、自分のことをシャーロック・ホームズだと思いこんでいる。
柳広司『吾輩はシャーロック・ホームズである』は、その漱石がロンドンで降霊会に出席し、その最中に霊媒師が毒殺されるところから動き出す長編です。題名はもちろん、『吾輩は猫である』のもじり。
とぼけた看板の下で、人が一人、死にます。
物語の入り口
ロンドン。留学中の夏目漱石は、心を病んで、自分のことをシャーロック・ホームズだと思いこんでいます。
日本から来た留学生が、この街でいちばん有名な架空の探偵を、自分だと信じている。周囲がそれをどう見ているか、本人がどこまで本気か。
ホームズは、この街に住んでいることになっている架空の人物です。その街で、その人物を名乗る。
思いこみとしては、これ以上ないほど場所に合っています。読者がまず観察するのは、この奇妙な人物です。
ある日、降霊会が開かれます。降霊会とは、霊媒師を囲んで座り、死者の声や気配を呼び出すという集まりのことです。
主催は、ヨーロッパで名の知られた霊媒師。死者の声を呼ぶという席に、漱石も参加します。
ホームズを自認する男が、霊が現れるという場に座っている——理詰めの名探偵と、理屈の外の交霊術と。この取り合わせだけで、何かが起きる予感は十分です。
そして実際に、起きます。席についた者のなかで、いちばん死とかかわりの深いはずの霊媒師が、死ぬ側に回る。
降霊会の最中、霊媒師が毒殺される。
読者は、暗くした部屋の隅に座らされます。誰が毒を盛ったのか。
毒は、刃物や拳銃と違って、盛られた瞬間が見えません。暗くした部屋なら、なおさらです。
降霊は本物だったのか、仕掛けだったのか。そして、この場で推理を始めようとしている男は、本当に事件を解ける人なのか。
三つの問いが、同じ部屋のなかに並びます。ホームズなら、ここで観察を始めるはずです。
漱石がそうするかどうかを、読者は隣で見守ることになります。
読みどころ
本作の魅力の核は、実在の文豪と架空の名探偵とが、一人の人物の上で重なるという着想そのものにあります。
シャーロック・ホームズという名前は、誰にとっても推理の代名詞です。夏目漱石という名前は、日本で本を読む人にとって文学の代名詞です。
その二つが、心を病んだ留学生の頭のなかで一つになる。文豪が名探偵の真似をする、という笑いと、心を病んだ人がそう信じている、という痛ましさ。
着想の裏表に、最初から両方が貼りついています。柳広司は、この着想を思いつきの一発で終わらせず、降霊会と毒殺という、名探偵にふさわしい舞台を用意しました。
ホームズを自認する男が、ホームズのように振る舞えるのか。その問いが、事件の謎と並んで走ります。
もうひとつは、題名のとぼけた調子と、降霊会という場所の不穏さとの落差です。「吾輩はシャーロック・ホームズである」という看板は、笑ってよいのか、心配すべきなのか、判断がつきません。
暗い部屋で霊を呼び、その席で人が毒を盛られる。笑いと不穏が同じページに同居する読み口は、この作家の実在人物もののなかでも、いちばん軽妙で、いちばん不穏な部類に入ります。
漱石の文学に敬意を払った、落ち着いた文芸ミステリを期待して開くと、文豪をここまで軽々と借りてくる遠慮のなさに戸惑うかもしれません。けれども、その遠慮のなさこそが、この一冊の看板です。
作品の背景
本作は2005年の刊行で、『新世界』の2年後にあたります。シュリーマン、ダーウィン、オッペンハイマー。
実在の人物を探偵役や語り手に据える路線を続けてきた柳広司にとって、夏目漱石は、日本の読み手にいちばん顔の見える名前でした。しかも今度は、その実在の人物が、架空の名探偵を名乗る。
実在と架空が一人の上で重なるという二重の借用は、この路線のなかでも本作だけのものです。漱石その人が、自分を漱石だと思っていない。
その一点が、他の実在人物ものと本作を分けます。
手に取るなら
現行版は角川文庫で、2005年に刊行された長編をそのまま収めています。漱石を借りた柳広司の作品としては、『贋作『坊っちゃん』殺人事件』と対になります。
あちらは作中人物の語り、こちらは作家本人。二冊を続けて読むと、同じ文豪の借り方の違いがよく見えます。
ホームズの正典を読んでいる必要はありませんし、漱石の全集を読んでいる必要もありません。ホームズという名前に心が弾む人と、「吾輩は」の一言でにやりとする人。
そのどちらかであれば、この降霊会の席は空いています。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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