ソロの少女だけがいない。
いまさら翼といわれても
合唱祭の直前に消えた少女を捜す表題作ほか、日常の謎と青春の切実さが重なる六篇。
「ちーちゃんの行きそうなところ、知らない?」。夏休み初日、折木奉太郎にかかってきた一本の電話から、表題作は動き出します。
合唱祭の本番を前に、ソロパートを任されているはずの千反田えるが、姿を消したという。『いまさら翼といわれても』は、米澤穂信の〈古典部〉シリーズ第6弾となる短編集。
事件と呼ぶには静かで、けれど当人にとっては切実な出来事。古典部の四人がそれぞれ抱えてきたものと、この先に選ぶ道とが、少しずつ覗く全六篇です。
物語の入り口
顔ぶれは変わりません。折木奉太郎、千反田える、福部里志、伊原摩耶花。
表題作の幕開けは、夏休み初日にかかってきた摩耶花からの電話です。合唱祭の本番を前に、ソロパートを任されている千反田が姿を消した。
あの千反田が、大事な役目を放り出していなくなる。それだけで、この電話がただの連絡ではないことがわかります。
合唱祭の本番は目前。ソロを歌うはずの人がいなければ、舞台は成り立ちません。
摩耶花の声には、焦りと、それ以上の心配がにじんでいたはずです。
千反田は今、どんな思いでどこにいるのか。会場に駆けつけた奉太郎は、推理を開始します。
行方を捜すという行為が、そのまま彼女の内側を読む作業になっていく。千反田の知られざる苦悩が垣間見える。
表題作の緊張はそこにあります。合唱祭のソロという、本来なら晴れやかなはずの役目を目前にしての不在です。
いつも好奇心の側から謎を持ち込んでいた人が、今度は謎そのものになる。奉太郎にとっても、読者にとっても、この配置の変化は小さくありません。
省エネを信条とする少年が、会場へ駆けつける。第1作から彼を知る読者なら、その足の速さだけで、この一篇の重さを察するでしょう。
読者は、電話を受けた奉太郎と同じ、まだ何も知らない位置に立たされます。手がかりは、千反田という人物について、これまで見てきたことだけ。
彼女の行きそうなところを考えるとは、彼女がどういう人かを考えることです。表題作を含む六篇はどれも、日常のなかの小さな出来事を扱いながら、その向こうに古典部のメンバーそれぞれの過去と未来を透かして見せます。
人が死なない、警察も来ない。それでも、当人にとってはその日いちばん大きな出来事。
この温度が、六篇を通して保たれています。
読みどころ
日常の謎という枠組みが、青春小説の切実さを運ぶ器として働いている。この二重性が、本作では最も濃く出ています。
派手な仕掛けで押す本ではありません。それでも、解決の瞬間は爽快であると同時に、少し痛い。
瑞々しくもビター、という一言は、読み終えたときの実感そのものです。高校生活の残り時間が見えてきた人たちにとって、日常の謎は、もう日常だけの謎ではいられません。
もうひとつは、第5弾からの六年の空白と、その間に書かれた短編の並びです。初出の時期が広く散らばっているぶん、一篇ごとに温度が違う。
それが同じ一冊に収まったとき、シリーズが積み上げてきた時間の厚みが、そのままページに出ています。第1作から順に追ってきた読者ほど、この厚みは手応えとして返ってくるはずです。
こんな人におすすめ
〈古典部〉を順に読んできた人には、迷わず薦められる一冊です。文庫で384ページに六篇ですから、一篇ごとに本を閉じ、2008年から2016年まで散らばる初出の違いを確かめながら進むこともできます。
高校時代を少し遠くから振り返れる年齢になった読者には、なおさら効く一冊でしょう。逆に、初めて米澤穂信に触れるなら、ここからではなく『氷菓』から始めるのが、遠回りに見えて近道です。
この巻の重みは、それまでの付き合いがあってこそ伝わります。
作品の背景
〈古典部〉シリーズの出発点は2001年の『氷菓』でした。米澤穂信はこの一作で世に出て、以後『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』『遠まわりする雛』『ふたりの距離の概算』と、同じ高校の同じ面々を書き継いできました。
2012年には京都アニメーションの制作でテレビアニメになり、2017年11月には実写映画『氷菓』も公開されています。デビュー作から続く舞台が、二十年をまたいで版を重ねてきたわけです。
本作はその第6弾で、2016年11月30日にKADOKAWAから単行本として刊行されました。第5弾からは六年あまりの空白を挟んでいます。
収められた六篇の初出はばらばらで、最も古いものは2008年、新しいものは刊行直前の2016年に発表されたもの。長い年月をかけて書きためられた短編が、ここで一冊の形に組み上げられました。
「週刊文春ミステリーベスト10」2017年国内部門で8位。角川文庫版は384ページです。
六年待った読者にとっては、待った甲斐のある厚みでした。
手に取るなら
現行版は角川文庫。電子版もあります。
アニメや実写映画で〈古典部〉に触れた人が、映像の先にある時間を活字で確かめるのにも向いています。シリーズの現時点での最新巻なので、ここまで読めば、古典部の面々と同じ時間を最後まで過ごしたことになります。
米澤穂信について
米澤穂信は1978年、岐阜県の生まれです。金沢大学文学部の在学中からウェブサイトで小説を発表しており、大学時代に北村薫の『空飛ぶ馬』『六の宮の姫君』を読んで衝撃を受け、ミステリへ進む道を定めたといいます。
卒業後は書店で働きながら書き続け、2001年に『氷菓』で第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞を受けてデビューしました。
高校生の身の回りの謎を扱う〈古典部〉〈小市民〉の両シリーズを書き継ぐ一方、大人の読者に向けた長編や短編集へも領域を広げてきました。2011年に『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞、2014年に『満願』で第27回山本周五郎賞を受け、2021年刊の『黒牢城』では第12回山田風太郎賞に続いて第166回直木三十五賞と第22回本格ミステリ大賞を受けています。
2025年には〈小市民〉シリーズで第10回吉川英治文庫賞を受けました。
書誌情報
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