そこへ交換殺人の申し出。
黄土館の殺人
名探偵が土砂の向こうにいる状態で、助手がひとり連続殺人に立ち向かう第3作
土壁の向こうで、連続殺人が起きている。名探偵は、そこにいない。
阿津川辰海『黄土館の殺人』は、そういう状況に語り手を置いた〈館四重奏〉の第3作です。殺人を企む一人の男が、土砂崩れを前に途方にくれています。
復讐相手の住む荒土館が地震で孤立し、犯行が不可能になったからです。そのとき、土砂の向こうから女の声がしました。
声は、交換殺人を申し入れてきます。同じころ、大学生になった語り手の田所信哉は、旅行先で「名探偵」の葛城と引き離され、荒土館に滞在することになりました。
孤高の芸術一家を、連続殺人が襲います。探偵はいない。
残されたのは、助手のほうです。山火事、洪水と続いた連作は、今度は地震と土砂崩れで館を閉ざしました。
2024年に講談社タイガから刊行され、本格ミステリ・ベスト10の2025年版で国内8位に入っています。シリーズは累計18万部です。
物語の入り口
殺人を企む一人の男がいます。復讐相手は、荒土館に住んでいる。
ところが、地震が起き、土砂崩れで館が孤立しました。犯行は、不可能になった。
男は、土砂を前に途方にくれます。そのとき、土砂の向こうから女の声がしました。
声は、交換殺人を申し入れてきます。土壁の向こうとこちらで、殺意が取り引きされようとしている。
同じころ、大学生になった語り手の田所信哉は、旅行先で名探偵の葛城輝義と引き離されました。滞在することになったのは、荒土館です。
住んでいるのは、孤高の芸術一家。そこを、連続殺人が襲います。
頼みの綱は、土砂の向こうにいる。惨劇に向き合うのは、ひとりです。
日付は大晦日、年が変わろうとする夜です。
孤高の芸術一家の館に身を寄せた田所の手もとにあるのは、葛城の推理ではなく、自分の目と耳だけです。前二作では、ひとりが語り、もうひとりが推理する、という形でした。
その形が、ここでは成り立ちません。推理する側は、土壁の向こうです。
読者は、名探偵の到着をあてにできないまま、語る側と並んで館に閉じ込められます。
読みどころ
この長編の読みどころは、名探偵がいない、という一点にあります。 前二作では、語り手の隣に探偵役がいました。
考えるのは探偵役で、こちらは見て、書く。その相手が、いまは土砂の向こうにいます。
考えるのは、自分ひとりです。惨劇を生き延びることと、推理することが、同時に語る側へ課せられます。
見て書く役目に慣れた目が、今度は考える役目まで引き受けなければなりません。観察と記録を受け持ってきた人物が、その記録だけを頼りに、自分で考えを組み立てるしかない場所に立たされます。
助手が助手でいられなくなったとき、何が起きるのか。それを、一冊まるごと使って書いています。
もうひとつは、冒頭の交換殺人です。土砂を隔てた二人が、顔も合わせないまま殺意を取り引きしようとする。
相手の姿は見えず、届くのは声だけです。交換殺人は、見知らぬ者どうしが互いの標的を引き受ける型として知られてきました。
その型が、土砂崩れという偶然の足止めから持ち出される。災害で閉ざされる館の連作にふさわしい幕の開け方です。
シリーズを通して読むと、館を閉ざす災害が、山火事、洪水、そして地震へと変わっていくのがわかります。火でも水でもなく、今度は土です。
三作目の土砂は、館を外から切り離すだけでなく、語り手と名探偵のあいだにも壁を立てました。災害の取り替えと同じく、この引き離しも、連作が一作ごとに組み替えてきた条件のひとつです。
作品の背景
この作品は2024年2月15日に講談社タイガから刊行されました。〈館四重奏〉の第3作で、既刊は2019年9月の『紅蓮館の殺人』と2021年2月の『蒼海館の殺人』です。
本格ミステリ大賞では、第20回に『紅蓮館の殺人』、第22回に『蒼海館の殺人』が小説部門の候補となっています。舞台は大晦日の荒土館で、館を閉ざすのは地震と土砂崩れです。
本格ミステリ・ベスト10の2025年版で国内8位に入りました。
手に取るなら
文庫で640ページあります。館ものが好きな人、探偵不在の謎解きに緊張を求める人、〈館四重奏〉を追ってきた人に。
事件そのものは単独でも追えますが、「名探偵がいない」ことの重さは、『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』で葛城を見てきた人ほど深く効きます。順に読むのがよいでしょう。
土壁の向こうで、連続殺人が起きている。大晦日の荒土館で、ひとりで考え始めるところから、この作品は動きます。
阿津川辰海について
阿津川辰海は1994年、東京都に生まれました。東京大学法学部に在学中は文芸サークル「新月お茶の会」に所属し、光文社の新人発掘企画〈カッパ・ツー〉の第一期に選ばれて、2017年に『名探偵は嘘をつかない』でデビューしています。
『紅蓮館の殺人』に始まる〈館四重奏〉や、短編集『透明人間は密室に潜む』『入れ子細工の夜』など、特殊な設定や極限の状況を持ち込み、その上で論理を組み立てる本格ミステリを書き継いできました。『透明人間は密室に潜む』は『本格ミステリ・ベスト10』2021年版で国内1位となり、2023年には『阿津川辰海 読書日記 かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』で第23回本格ミステリ大賞の評論・研究部門を受けています。
書誌情報
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