記者会見で推理を披露した。
最後のあいさつ
30年前に無罪を勝ち取った俳優へ、同じ手口の殺人が再び影を落としはじめます。
30年前の国民的刑事ドラマ『左右田警部補』は、最終回目前に打ち切られました。主演俳優・雪宗衛が、妻殺しの容疑で逮捕されたからです。
「日本で最も有名な刑事」の逮捕劇に、日本中が熱狂しました。雪宗は緊急記者会見を開き、役柄さながらに、真犯人の正体を暴く「推理」を披露します。
無罪を勝ち取りましたが、世間の目は厳しく、疑惑は完全には晴れませんでした。時を経て、同様の手口の殺人が確認された今、関係者の時間が再び動き出す。
阿津川辰海『最後のあいさつ』は、ノンフィクション作家・風見の取材から始まる物語です。放送されなかった幻の最終回の題が、「最後のあいさつ」。
2025年8月に光文社から刊行され、本格ミステリ・ベスト10の2026年版で国内5位に入りました。
物語の入り口
30年前。国民的刑事ドラマ『左右田警部補』が、最終回を目前にして打ち切られました。
理由は、主演俳優・雪宗衛の逮捕です。容疑は、妻殺し。
「日本で最も有名な刑事」を演じていた俳優が、殺人の容疑者になった。茶の間で見慣れた刑事の顔が、そのまま事件報道の顔になったわけです。
日本中が、この逮捕劇に熱狂しました。
雪宗は、緊急記者会見を開きます。そこで彼は、役柄さながらに、真犯人の正体を暴く「推理」を披露しました。
刑事を演じていた俳優が、現実の事件で刑事のように振る舞う。会見は、そういう場になりました。
カメラの前で語られた「推理」は、法廷の証言ではなく、ひとつの上演でもありました。雪宗は無罪を勝ち取ります。
しかし、世間の目は厳しく、疑惑は完全には晴れませんでした。
時を経て、同様の手口の殺人が確認されました。関係者の時間が、再び動き出します。
かつての騒ぎに関わった人々が、否応なくもう一度あの事件の前へ呼び戻されるのです。ノンフィクション作家・風見が、取材に乗り出す。
探偵でも刑事でもない、事件を書き記す側の人間です。放送されなかった幻の最終回の題は、「最後のあいさつ」。
読者は風見の取材に伴走しながら、30年前の逮捕劇と、カメラの前で披露された「推理」を、長い時間を隔てて見直す位置に立たされます。
読みどころ
この長編の読みどころは、刑事を演じた俳優が、現実の事件で「推理」を披露するという、虚構と現実のねじれにあります。 雪宗は探偵ではありません。
探偵を演じていた人間です。その彼が、自分にかけられた容疑を晴らすために、役柄と同じ手つきで推理を語る。
会見を見た日本中の人々は、俳優の推理を聞いているのか、刑事の推理を聞いているのか。その区別がつかなくなる場所に、この作品の面白さがあります。
俳優にとって、演じることと語ることの境目はどこにあるのか。その問いが、事件の問いと重なっています。
もうひとつは、「劇場型犯罪」という出発点です。執筆のもとになった企画の課題として公開されている言葉ですが、そこから真相の型を推し量ることはできません。
言えるのは、この作品では、事件そのものが最初から見られる対象として書かれているということです。逮捕劇に熱狂する日本中の目。
会見に集まるカメラ。30年後に再び動き出す関係者。
見る側と見られる側が、最初から用意されています。
30年という時間の長さも効いています。当時を知る人は年を取り、知らない人が増え、記憶は薄れ、記録だけが残る。
その記録を、ノンフィクション作家の風見が取材で掘り起こしていく。風見は当時の熱狂の渦中にいた人間ではなく、あとから記録をたどる側に立っています。
騒ぎの外側にいた者の目で、30年分の時間を一枚ずつめくっていく。その手つきの落ち着きが、派手な発端と釣り合いを取っています。
作品の背景
本作は、刑事ドラマと俳優と記者会見という、現実の側の道具立てで組み立てられた長編です。
もとになったのは、光文社の文芸誌「ジャーロ」の100号に長編を一挙掲載する企画で、「劇場型犯罪」に挑むという課題が出発点でした。2023年夏に企画が動き出し、2024年3月に「渦中の人物を刑事ドラマの主演俳優にする」という着想で形が定まった、と著者と担当編集者の対談で公開されています。
単行本は2025年8月に光文社から出ました。本格ミステリ・ベスト10の2026年版で国内5位でした。
手に取るなら
光文社の単行本で420ページ、Audible 版もあります。刑事ドラマが好きだった人、俳優と役柄の境目に惹かれる人、30年前の事件を現在から掘り返す物語を読みたい人に。
阿津川辰海の作品を特殊設定ものとして読んできた人には、別の顔を見せる一冊です。打ち切られたドラマの、幻の最終回。
その題名が「最後のあいさつ」である理由を、風見と一緒に探しにいってください。
阿津川辰海について
阿津川辰海は1994年、東京都に生まれました。東京大学法学部に在学中は文芸サークル「新月お茶の会」に所属し、光文社の新人発掘企画〈カッパ・ツー〉の第一期に選ばれて、2017年に『名探偵は嘘をつかない』でデビューしています。
『紅蓮館の殺人』に始まる〈館四重奏〉や、短編集『透明人間は密室に潜む』『入れ子細工の夜』など、特殊な設定や極限の状況を持ち込み、その上で論理を組み立てる本格ミステリを書き継いできました。『透明人間は密室に潜む』は『本格ミステリ・ベスト10』2021年版で国内1位となり、2023年には『阿津川辰海 読書日記 かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』で第23回本格ミステリ大賞の評論・研究部門を受けています。
書誌情報
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