黄金期英国古典 1971
依頼人はもう死んでいる。
何の事件かも語らずに。
『復讐の女神』アガサ・クリスティー

書評

復讐の女神

故ジェイソン・ラフィエル氏の遺言から始まる、何の事件かも告げられぬ奇妙な依頼。マープル晩年の到達点

復讐の女神 表紙画像
アガサ・クリスティー 早川書房(クリスティー文庫) 原書 1971年 · 邦訳 2004年
目次

「何の事件かも分からないまま、その事件を調べてほしい」——亡くなった富豪から届いた一通の手紙が、老婦人探偵を奇妙な旅へと送り出します。『復讐の女神』は、アガサ・クリスティーがマープルもの長編として最後に書き下ろした、晩年の到達点と呼ぶべき一冊です。

クリスティーがこの物語を書いたのは、すでに八十代に入ってからのこと。長い作家生活の末に、彼女は自らの生んだ老婦人探偵へ「ネメシス(復讐の女神)」——ギリシア神話における応報の女神の名を引き受けさせ、静かに立ち上がらせます。

公式にも、八十代で書かれた本作は「ミステリと欺きの技巧が今なお衰えぬことの証」と紹介される一編。派手な仕掛けの切れ味というより、長いキャリアの末にたどり着いた落ち着いた凄みが、全編を静かに満たしています。

マープルという探偵は、小さな村に暮らす、どこにでもいそうな物静かな老婦人です。事件を追って現場を駆けまわるでも、鋭い推理を声高に披露するでもない。

ただ、人間というものを長年見つめてきた眼だけを武器に、噂話や何気ない仕草の奥から真実を掬い上げる。その静かな探偵が、キャリアの最後で「復讐の女神」の名を託されるという設定そのものに、シリーズを見送る作者の万感がにじんでいます。

長く付き合ってきた読者であればあるほど、その重みは胸に迫るはずです。

物語の入り口

物語は、マープルのもとに届く一通の手紙から動き出します。差出人は、少し前に世を去った大富豪ジェイソン・ラフィエル氏の弁護士。

ラフィエル氏は、かつて旅先でマープルと知り合い、ある事件をともに解き明かした、いわば一度だけ手を組んだ相棒でした。辛辣で抜け目のないあの老人が、なぜ今になって——訝しむマープルが便箋を開くと、そこには思いもよらぬ依頼が記されていました。

「ある犯罪を調査してほしい」。ラフィエル氏は、彼女のうちに正義を求める天性の勘を見抜き、自らの死後に働いてもらうべく、この依頼を遺していたのです。

ところが、その手紙には肝心なことが何ひとつ書かれていません。どんな犯罪なのか。

いつ、どこで起きたのか。誰が関わっているのか。

調べるべき対象そのものが、伏せられたままなのです。普通の探偵小説なら、まず事件が起きて、それから謎解きが始まります。

ここではその順序が崩れている。犯罪の存在だけが宙に示され、その形を探すことから物語が動き出すのです。

マープルにとっても、これほど奇妙きわまる依頼はなかったに違いありません。手がかりとして与えられたのは、イギリスの著名な邸宅と庭園を巡るバスツアーへの参加券が一枚きり。

指示に従って旅立てば、答えに近づけるはずだ——ただそれだけを頼りに、老婦人は見知らぬ同行者たちの待つ旅へと向かいます。その一行には、それぞれの思惑を胸に秘めた人々が加わっていました。

読者もまた、何を見張ればいいのかも分からないまま、彼女のかたわらでこの旅路を進んでいくことになります。

読みどころ

本作の面白さは、まず「何を調べればいいのか」を探すところから始まる、という構造そのものにあります。 事件の姿がまだ見えない状態で、マープルは旅の風景に身を置きながら、同行者たちの言葉やふるまい、ふとした表情から、自分が向き合うべきものの輪郭をゆっくりと手繰り寄せていく。

村の噂話を糸口に人の本性を見抜く、あの安楽椅子探偵の流儀が、見知らぬ土地と見知らぬ人々を相手にどこまで通じるのか。シリーズを追ってきた読者ほど、その拡張の手つきを深く味わえるはずです。

もうひとつ忘れがたいのは、応報の女神の名を引き受けた老婦人が、静かに立ち上がるその瞬間の迫力でしょう。穏やかな村の一員として長く親しまれてきた人物が、「ネメシス」を名乗って過去へ手を伸ばす。

その筆致には、「正義」というテーマを生涯見据えてきた作者ならではの重みがこもっています。切れ味のよいパズルとしてよりも、人間の罪深さと時間の残酷さを見つめる眼差しの深さで読ませる作品であり、謎が解き明かされたあとに残る余韻もまた格別です。

こんな人におすすめ

派手なトリックの意外性を第一に求める読者には、序盤の歩みがゆっくりに感じられる場面もあるかもしれません。けれども本作の醍醐味は、輪郭のない謎が少しずつ像を結んでいくその過程と、老いた探偵がなお衰えぬ眼力を発揮する静かな高揚にあります。

人間の暗部や時間の重さを見据える物語を厭わない読者、そしてマープルという人物の行き着いた地点を見届けたい読者にこそ、深く響く一冊です。

手に取るなら

本作は『カリブ海の秘密』でラフィエル氏とマープルが出会った物語と対をなす、姉妹編とも呼ぶべき一作です。続編ではありませんが、先に『カリブ海の秘密』を読んでおくと、ラフィエル氏という人物像がいっそう立体的に立ち上がり、味わいが深まります。

現在手に取るなら早川書房クリスティー文庫の乾信一郎訳。長く読み継がれてきた、マープル長編の掉尾を飾る重要作です。

アガサ・クリスティーについて

アガサ・クリスティーは1890年、英国デヴォン州トーキーに生まれ、1976年に亡くなりました。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として働き、そこで得た毒薬の知識はのちの作品にも生かされています。

1920年の長編『スタイルズ荘の怪事件』でデビューし、以後半世紀以上にわたって長編66作をはじめとする膨大な作品を書き続けました。

生み出した探偵は、ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロ、村に暮らす老婦人ミス・マープル、若い夫婦のトミーとタペンス、謎めいたハーリ・クィン、パーカー・パインと多彩です。戯曲にも力を注ぎ、1952年に初演された『ねずみとり』は演劇史上最長のロングラン記録を持っています。

1955年にアメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受け、1971年にはデイムの称号を授けられました。「ミステリの女王」と呼ばれ、世界で最も多く翻訳された作家のひとりです。

書誌情報

出版社
早川書房 / クリスティー文庫
原書刊行年
1971
邦訳刊行年
2004
系譜
黄金期英国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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