ミステリーとしての読みどころ
すべての名探偵は、ここから歩き出しました。アフガニスタンの戦場で傷を負い、病み衰えて帰ってきた一人の軍医。
ロンドンで手頃な下宿を探していた彼が、部屋を折半する相手にたまたま引き合わされる——ただそれだけの偶然が、のちに世界中で読み継がれる相棒関係の第一歩になります。『緋色の研究』は、シャーロック・ホームズが初めて読者の前に姿を現した長編第1作。
ミステリという読み物の原点に触れてみたいとき、まっさきに手が伸びる一冊です。
著者について
著者のアーサー・コナン・ドイルは、1859年イギリスの生まれ。開業医として看板を掲げたものの患者足はふるわず、暮らしの足しにと原稿用紙に向かった人でした。
学生時代に師事した外科医ジョセフ・ベル教授は、患者を一目見ただけで職業や来歴を言い当てたと伝わります。その鋭い観察眼こそが、ホームズという人物像のひな型になりました。
本作が世に出たのは1887年のこと。年末に並ぶ安価な特集誌〈ビートンズ・クリスマス・アニュアル〉に掲載され、ここで名探偵が産声を上げます。
翌1888年には単行本にもなりましたが、当初の反響は静かなものだったと言われています。ホームズが国民的な熱狂を呼ぶのは、1891年から〈ストランド・マガジン〉で短編連載が始まって以降。
本作はいわば、人気が沸騰したあとになって「そういえば、すべてはあの一冊から始まっていた」と読み返された起点でした。
物語の入り口
物語は、ワトスンの手記という体裁で幕を開けます。異国での従軍に病み衰え、本国へ戻ってきた元軍医。
手頃な下宿を探していた彼は、同じように部屋の相手を探している一人の男を、知人づてに引き合わされます。下宿の住所はベイカー街221番地B。
紹介された相手の名は、シャーロック・ホームズ——。のちに永遠の名コンビと呼ばれることになる二人の共同生活は、こんなにも何気ない紹介から静かに始まるのです。
ところが、この同居人がどうにも一筋縄ではいきません。得体の知れない知識を偏って蓄え、妙な実験に没頭し、素性をはかりかねるワトスンをよそに我が道を行く。
読者はワトスンの肩ごしに、この風変わりな人物を訝しみながら観察することになります。そこへ、スコットランドヤードのグレグスン警部から一通の協力依頼が舞い込む。
それを潮に、ホームズがいったい何を生業とする男なのかが、少しずつ像を結んでいきます。
二人が初めて挑むことになるのは、ロンドン郊外ローリストン・ガーデンズの空き家で見つかった、奇怪な殺人事件でした。倒れていたのは、アメリカから渡ってきた一人の旅行者。
壁には血で書きつけられた文字だけが残されています。警察も匙を投げかけるこの謎に、ホームズはワトスンを伴って乗り出していく。
そして、その死の奥には、長く哀しい物語が横たわっていた——。ホームズものの骨格をなす道具立てが、この第一作の時点でもう出そろっているのです。
読みどころ
まず心をつかまれるのは、ホームズの観察と推理のスピードです。 初対面のワトスンと向き合ったその場で、相手のたどってきた経歴をすらすらと言い当ててみせる。
冒頭のこの場面は、後年の名探偵ものが幾度となく引き合いに出してきた型の源になりました。それを目を見張りながら書き留めるワトスンの語りも、早くもここで出来上がっています。
探偵が鮮やかに解いてみせ、相棒が舌を巻く——この黄金の構図そのものが、本作から生まれたのです。
もう一つの読みどころが、独特の二部構成です。前半はロンドンを舞台にした事件編、後半は北米大陸へと場所を移した過去の物語編。
目の前の事件だけでなく、その背後にある人間の来し方を腰を据えて語ろうとする姿勢は、後続のミステリにも遠く影を落としています。切れ味のよい推理を追う楽しみと、壮大な物語を読む手応えとが、一冊のうちに同居している。
事件を解くだけで満足せず、その動機の底にある人間の営みまで描き切ろうとする——そんな欲張りな作りが、この処女長編にはすでに宿っています。
名探偵の颯爽とした推理に身を委ねたい読者、そしてホームズものを最初の一冊から順に追ってみたい読者には、これ以上ないほど素直におすすめできる一冊です。一方で、後半の過去物語編には、書かれた時代の宗教や異文化に対するステレオタイプがそのまま残る箇所があり、現代の目には古びて映るかもしれません。
とはいえ、百年をゆうに越えて読み継がれてきた古典を手に取る、あの独特の手ざわりも、また格別のものでしょう。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の深町眞理子訳が読みやすく安心です。巻末には戸川安宣による解題と、高山宏による解説も添えられています。
ほかにも光文社文庫(日暮雅通訳)、角川文庫(駒月雅子訳)、新潮文庫(延原謙訳)と新旧の訳がそろい、電子書籍でも読めます。ここから『四つの署名』、さらに短編集『シャーロック・ホームズの冒険』へと読み進めるのが、シリーズへのいちばん自然な入り口になるはずです。