ミステリーとしての読みどころ
割れた一枚の鏡が、事件を解くただひとつの手がかりになる。エルキュール・ポアロが挑む中編四作を収めた『死人の鏡』は、そんな鮮烈な絵柄を表題作の中心に据えた作品集です。
短編の切れ味と、長編ならではの読み応え。その両方をひと続きに味わえる、少し贅沢な読書がここにあります。
著者について
アガサ・クリスティーがこれらの中編を書いたのは、作家としてもっとも脂の乗っていた1930年代後半のことでした。原書の刊行は1937年。
名探偵ポアロの造形も、事件を組み立てていく手つきも、すでに円熟の域に達していた時期の仕事です。だからでしょうか、ここに並ぶ物語はどれも、意外な真相へ一直線に走るのではなく、事件の周囲にいる人々を腰を据えて見つめる余裕を持っています。
切れのよいアイデア一発で読ませる若い頃の短編とは、味わいがひと味ちがう。そんな成熟が一冊ににじんでいます。
ポアロの短編には、新聞の三面記事のような小さな謎を、鮮やかな一手でひっくり返してみせる痛快さがあります。いっぽう長編では、多くの容疑者と入り組んだ事情のなかを、探偵とともにゆっくり歩き回る楽しみがある。
本書に収められた中編は、ちょうどその二つのあいだに位置しています。短編ほど駆け足ではなく、長編ほど腰は重くない。
ひとつの事件と、それを取り巻く数人の人物を見つめるのに、過不足のない長さといえます。忙しい合間に一編ずつ読み進めても物足りなさが残らないのは、この絶妙な寸法のおかげでしょう。
収められているのは、「厩舎街の殺人」「謎の盗難事件」「死人の鏡」「砂にかかれた三角形」の四編です。いずれも通常の短編よりも長い中編で、事件の骨組みを示して幕を引くのではなく、そこに関わる人々それぞれの事情や、揺れ動く心のありようまでを、たっぷりと時間をかけて描き込んでいきます。
四編それぞれに異なる謎の色合いがあり、飽きずに読み進められるのも作品集ならではの楽しみでしょう。
なかでも一冊の顔となる表題作「死人の鏡」は、一通の依頼から静かに幕を開けます。何者かの謀略に巻き込まれかねない——そう案じた人物から調査を頼まれ、ポアロは依頼人である准男爵の邸へと足を運びます。
名家の当主が抱えた不安の正体を確かめる。はじめは、そういう穏やかな調査行のはずでした。
ところが屋敷で彼を待っていたのは、ほかでもない依頼人その人の死だったのです。しかも死の現場となった部屋は、閉ざされた密室。
状況は一見して自殺を思わせるのに、その人がみずから命を絶たねばならない理由が、どうにも見当たりません。頼まれていた謀略とは、いったい何だったのか。
そして、この不可解な死は、それとどうつながっているのか。手がかりらしい手がかりは、ただひとつ——書斎に残された、割れた一枚の鏡だけでした。
依頼を受けて屋敷を訪れたその足で、思いもよらぬ死に立ち会うことになる。読者はポアロのすぐかたわらで、この閉ざされた状況に置き去りにされたような心地を味わいながら、砕けたガラスの破片が何を映していたのかを、探偵とともに見つめることになります。
事件の全体像がまだ形をなさないうちから、屋敷にこもった空気だけが、じわりと重みを増していくのです。
読みどころ
この作品集の読みどころは、トリックの意外性以上に、人間そのものを読ませるところにあります。 中編という長さは、ポアロにとっても、事件に巻き込まれた人々にとっても、ちょうどよい呼吸を与えてくれます。
短編なら数行で片づけられてしまう背景や感情の機微が、ここではきちんと語られる。ポアロが真相へ近づいていく手際を楽しみながら、同時にその事件が誰の人生の上で起きているのかを、じっくりと感じ取ることができるのです。
謎の色合いも、四編それぞれで異なります。舞台も、集まる人々も、事件のかたちも一様ではなく、ページをめくるたびに気分が切り替わる。
ひとつの趣向に飽きる前に次の物語が始まるので、作品集でありながら通して一気に読ませる力があります。多彩な謎とドラマが、名探偵の妙技のもとで一編ごとに違う表情を見せる。
黄金期のミステリらしい薫りを、腰を据えて堪能できる一冊です。
派手な仕掛けに一瞬で驚かされたい、という気分のときには、この落ち着いた筆致は少しゆっくりに感じられるかもしれません。けれど、事件と人間の両方をていねいに味わいたい読者、そして短編よりもう少し深く物語に浸りたいポアロ好きには、これほど過不足のない読み物もそうありません。
長編を読み通す時間はないけれど、確かな手応えが欲しい——そんな夜にもよく似合います。
手に取るなら
いま手に取るなら、早川書房のクリスティー文庫で読めます(邦訳は2004年刊)。数あるポアロ物のなかでも、短編と長編のちょうど中間を狙った、この作品集ならではの立ち位置は貴重です。
切れ味だけでも、読み応えだけでもない、その両方を一度に楽しみたいときの、確かな一冊としておすすめできます。