国の命運がかかった。
饗宴 ソクラテス最後の事件
祝宴の翌朝の死にソクラテスが挑む、古代の哲人と謎を考える長編です。
古代アテナイの広場で、人が死んでいます。前夜の宴に列席していた、貴族の青年です。
同じ宴に招かれていたのが、哲人ソクラテス。柳広司『饗宴 ソクラテス最後の事件』は、古代ギリシアを舞台に、議論を交わす哲学者を探偵役に立てた長篇本格です。
朝日新人文学賞の受賞第一作として、2001年に刊行されました。
物語の入り口
宴に招かれたのは、ソクラテスとクリトンでした。招く側は貴族、集まる顔ぶれも貴族。
哲人はそこで、いつものように問答を交わしたのでしょう。そして夜が明けます。
前夜の宴席にいた貴族の青年が、アゴラ——アテナイの市民が集う広場——の中心で死んでいました。ただ死んでいたのではありません。
その死は奇妙なもので、どう奇妙なのかが、本を開いた読者が最初に受け取る謎です。前夜のにぎやかな宴と、翌朝の広場に横たわる死。
その落差から、物語は歩き出します。
事件は、それだけでは終わりません。アクロポリスの裏手で、もうひとつの死体が見つかります。
異国風の青年で、体はばらばらにされていました。そばには陶器と円盤。
どちらにも、意味のとれない文字と模様が刻まれています。宴のあとの奇妙な死と、丘の裏のばらばらの死体と、読めない文字。
三つが同じ朝に、一つの都市のなかに並びます。疑いの向かう先として持ち出されるのが、謎の"ピュタゴラス教団"と、人造人間"ホムンクルス"です。
広場の一つの死から始まった騒ぎは、都市国家アテナイの命運をかけた大事件へとふくらんでいきます。
そこへ乗り出すのが、変人ソクラテスです。問答を身上とするこの哲学者は、ものごとを一つひとつ問いただして、相手が自分で答えに気づくまで手を放さない人でした。
その手つきが、今度は死体と文字と教団に向けられます。読者はアテナイの街路に案内され、ソクラテスの問いが一つ発せられるたびに、その答えを一緒に待つことになります。
答えが出ても、この哲学者はそこで満足しません。その答えを、また問い直す。
教団の企みか、人造人間の仕業か、それとも人の手か。問いの向かう先は、まだ誰にもわかりません。
読みどころ
醍醐味は、哲学者の問答がそのまま推理になるところにあります。
探偵役がソクラテスである、というのは思いつきの看板ではありません。問いを重ね、相手の答えを疑い、また問う。
その往復は、そのまま事件の調べ方でもあります。真相にたどり着く道筋を、『饗宴』は哲学者の癖に沿って組み立てました。
しかもその問いの前には、教団の呪いと人造人間という、理屈の外にある噂が最初から置かれています。問いを重ねる人と、問いを受けつけない噂。
その組み合わせ自体が、この作品の趣向です。古代ギリシアの知識がなくても心配はいりません。
ソクラテスが問う。誰かが答える。
その答えを聞いて、次の問いを待てばいい。それだけで、アテナイの朝が少しずつ形を変えていきます。
もうひとつは、この作家の出発点を見られることです。柳広司は、実在の人物を探偵役に据える書き方を最初期から続けてきました。
本作はデビューの年の3冊目、朝日新人文学賞の受賞第一作にあたります。史実の人物を借りて、記録に残っていない事件を書く。
その方法が、すでにここで動いています。受賞第一作という、次の一手が注目される位置で、柳広司は古代アテナイの哲学者を探偵役に選んだわけです。
古代ギリシアの風俗をゆったり味わう歴史小説を期待して開くと、最初の朝から死体が並ぶ速さに驚くかもしれません。けれども、問答の哲学者が問答のまま探偵になる——その一点で、この長編は最後まで筋を通します。
作品の背景
柳広司は2001年3月、原書房から刊行された『黄金の灰』で小説家になり、同じ年、『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受賞しました。本作はその受賞第一作として、やはり2001年のうちに世に出ました。
デビューの年に長編を3冊。しかも舞台は、そのつど別の国、別の時代です。
この『饗宴』は、のちに『ジョーカー・ゲーム』を書く作家が、デビューの年に出した作品です。巻末に付く村上貴史の解説は、この長編を「圧巻である」「刺激的なミステリ」と評しました。
新人の3冊目に対する言葉としては、かなり強い。その強さがどこから来るのかは、宴の翌朝の広場に立ってみればわかります。
手に取るなら
現行版は2019年刊の角川文庫で、村上貴史の解説が付きます。単行本から18年を経ての文庫化です。
柳広司の作品として読むなら、『黄金の灰』『贋作『坊っちゃん』殺人事件』と同じ2001年の長編で、どれから入っても差し支えありません。『ジョーカー・ゲーム』から入った人が、この作家の出発点を確かめるために遡るのにも向いています。
宴の翌朝、アゴラの中心に立つソクラテスの隣へ、まず足を運んでみてください。
柳広司について
柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。
同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。
初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。
2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。
書誌情報
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