深い森の館で待っている。
黒猫館の殺人
記憶を失った老人の依頼に導かれ、森の奥の館をめぐる謎を追いかける。
火災で重傷を負い、記憶を失った老人がいる。名は鮎田冬馬。
その奇妙な依頼を、推理作家の鹿谷門実と江南孝明が引き受けるところから、『黒猫館の殺人』は動き出します。調査の道筋は東京から札幌へ、そして阿寒へ。
その先の深い森のなかに、大いなる謎を秘めた館、黒猫館が建っています。記憶を失った依頼人のもとから、北の森に建つ館へ。
そのあいだを二人の探偵役が旅していく、館シリーズの第6作です。
物語の入り口
依頼人は、鮎田冬馬という老人です。火災で重傷を負い、記憶を失っている。
その老人が、推理作家の鹿谷門実と江南孝明に奇妙な依頼を持ちかけます。記憶を失った人物が探偵役に何かを頼む、という状況の奇妙さは、最初からはっきりしています。
身体の傷と記憶の空白を抱えたまま、頼みごとを口にする老人。その姿そのものが、物語の最初の謎になっています。
依頼を受けた二人は、東京を発ちます。向かう先は札幌、そして阿寒。
北へ、北へと道筋は延びていき、その果てに、深い森のなかに建つ館があります。黒猫館。
二人が目指す建物です。札幌のさらに先、阿寒の木々に囲まれた土地に、その館は建っています。
大いなる謎を秘めた館。そう呼ばれる建物が、人里を離れた森の奥で二人を待っています。
依頼人の過去さえ定かでないところから始まり、調べる側と歩調を合わせて、ひとつずつ確かめていく。老人の事情を知りたいという興味と、謎めいた屋敷へ近づいていく期待。
その二つに引かれて、読者は鹿谷と江南の後ろをついていくことになります。
森の奥の館で何が待つのかは、まだ見えません。館もまた、出発の時点では輪郭を持たない謎のままです。
自分の過去さえ語れない老人の頼みを携えて、二人は東京を離れ、北の森へ分け入っていきます。歩き出したその時から、答えより先に、問いばかりが増えていきます。
読みどころ
館の扉が開く前から、依頼人その人が最初の謎として読者の前に立っています。 記憶を失った老人の依頼を、二人の探偵役が受ける。
調べる手がかりになるはずの依頼人が、自分のことを語れない。その据わりの悪さを抱えたまま、二人は東京を発ち、札幌、阿寒と道筋をたどって、森の奥の黒猫館を目指します。
調べる側と歩調を合わせて確かめていく読書に、この物語はとりわけ向いています。
もうひとつは、依頼人の姿が落とす影です。火災で重傷を負い、記憶まで失った老人が、推理作家のもとへ奇妙な依頼を持ち込む。
依頼の中身がわかる前から、その姿は読む者の胸に小さな棘のように残ります。老人の代わりに足を運ぶのは、依頼を受けた二人と、その後ろをついていく読者です。
北の森を目指す道行きには、謎を追う興味と並んで、ひとりの老人の頼みを預かって歩く重さがあります。謎を追う足取りが、そのまま誰かの頼みを果たしにいく足取りでもある。
そこに、この物語の奥行きがあります。推理作家という肩書きの二人が、机の上で組み立てる筋書きではなく、生身の依頼人の頼みを抱えて北へ向かう。
その取り合わせにも、館ものの導入としての独特の手ざわりがあります。
こんな人におすすめ
館シリーズを追いかけている読者。記憶を失った依頼人の頼みから、手探りで謎に近づいていく読み方を楽しめる読者。
どちらにも向いています。手がかりを一つずつ拾い集めながら読み進めるのが好きな人にも合います。
推理作家が探偵役を務める物語に目がない読者なら、鹿谷門実と江南孝明の二人連れの調査にも、きっと引き込まれるはずです。逆に、派手な事件の連続に引っぱられて読み進めたい人には、ひとつずつ確かめながら進む調査の足取りが、少しもどかしく感じられるかもしれません。
館ものの本格ミステリを、まず雰囲気から味わいたい人にも向いています。深い森、北の土地、謎を秘めた館という道具立ては、物語の入り口の段階ですでに揃っています。
作品の背景
本作は1992年4月に講談社ノベルスから刊行された、館シリーズの第6作です。1987年の『十角館の殺人』から数えて5年で、六つ目の館が建ったことになります。
続く第7作『暗黒館の殺人』が出るのは2004年9月で、シリーズには本作のあと十二年あまりの間が空きました。
手に取るなら
現行版は2014年1月に出た講談社文庫の新装改訂版です。電子版もあるので、シリーズを一冊ずつ追いかける途中でもすぐに続きへ進めます。
探偵役は鹿谷門実と江南孝明の二人で、シリーズの途中の巻ですが、単独でも筋は追えます。記憶を失った老人の頼みを携えて北へ向かう二人を、森の奥で黒猫館が待っています。
綾辻行人について
綾辻行人は1960年、京都市の生まれです。京都大学教育学部に進んで京大推理小説研究会に所属し、のちに妻となる小野不由美と同期でした。
研究会には我孫子武丸や法月綸太郎も在籍しています。大学院在学中の1987年に『十角館の殺人』でデビューし、この一作がのちに「新本格」と呼ばれる流れの起点になりました。
1992年には『時計館の殺人』で第45回日本推理作家協会賞(長編部門)を、のちには第22回日本ミステリー文学大賞を受けています。
奇妙な館を舞台にした館シリーズを書き継ぐ一方で、囁きシリーズや『殺人鬼』、『Another』、『深泥丘奇談』の連作など、恐怖と怪奇を主眼に据えた作品にも長く取り組んできました。漫画家の楳図かずおを「わが心の師」と公言しており、謎解きの骨組みを組み上げる仕事と、怖さを描く仕事を並行して続けてきた作家です。
書誌情報
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