その言葉と共に人が殺される。
黄昏の囁き
兄の死を追う医学生の歩みに、幼い日の記憶と囁きの不穏さが忍び寄る。
兄の急死に、医学生の翔二は納得できませんでした。綾辻行人『黄昏の囁き』は、元予備校講師の占部の協力を得た翔二が、その死の真相を追い始めるところから動き出します。
その一方で、「ね、遊んでよ」という謎の言葉とともに、残忍な犯行を重ねる殺人者がいる。そして翔二の心には、封印されてきた幼い日の記憶がある。
「囁き」三部作の完結編で、身近な人の死を出発点に、恐怖と推理を重ねていく長編です。
物語の入り口
翔二は医学生です。その兄が、急死しました。
ふつうなら、悲しみのなかで受け入れるしかない出来事です。ところが翔二は、兄の死に不審を抱きます。
何かがおかしい。自然な死として受け入れるには、納得のいかないものがある。
彼は、兄の死の真相を追い始めます。
協力するのは、元予備校講師の占部です。医学生と元講師という、警察でも探偵でもない二人が、身近な人の死をきっかけに、事件の輪郭を探っていく。
捜査の権限もなければ、現場を調べる手立ても限られている。頼りになるのは、兄の死をそのまま受け入れられなかった翔二の違和感と、占部の協力です。
その一方で、殺人者がいます。「ね、遊んでよ」という謎の言葉とともに、残忍な犯行を重ねる殺人者。
その言葉が誰のもので、何を指すのかはわかりません。遊んでよ、という言葉と、残忍という形容。
その落差が、この物語に漂う不穏さの源です。兄の死と、殺人者の犯行。
二つがどう関わるのか、翔二にはまだ見えていません。
そしてもうひとつ、翔二自身の内側に、封印されてきたものがあります。幼い日の記憶です。
長く閉じたままにしてきたその記憶の蓋に、翔二は手をかけることになる。何があったのかを確かめたいという気持ちに、過去へ近づく怖さが入り込んでくる。
読者は、翔二とともに、その怖さを抱えながらページをめくることになります。兄の死、殺人者、封印された記憶。
三つの謎が、黄昏の色のなかに並んで置かれています。
読みどころ
真相を追う推理の緊張と、正体の見えない殺人者への恐怖が、一人の医学生の手探りの歩みの上で重なっていきます。 兄の急死という、誰にでも起こりうる出来事から物語が始まります。
探偵役は医学生と元予備校講師で、特別な能力があるわけではない。それでも、真相を追う手つきは本格ミステリのそれで、一方には残忍な殺人者の影があり、もう一方には封印された記憶がある。
警察でも探偵でもない二人が、身近な死への納得のいかなさだけを頼りに調べていく。その手探りの歩みに、読む側の足取りも重なります。
推理の緊張と心理的な恐怖が、同じ歩幅で進んでいきます。どちらか一方に寄りかからない均衡が、この一冊の読み心地を決めています。
もうひとつは、過去へ近づくほど落ち着かなくなる読み心地です。翔二の心には、封印されてきた幼い日の記憶がある。
知りたい、けれど知るのが怖い。その二つの気持ちが、一冊を通して読者の胸に同居します。
緋色、暗闇と続いた題名の最後に置かれたのは、光が消えかかる時刻の色でした。黄昏という題名の色が、そのまま物語の温度になっています。
昼でも夜でもない、境目の時間の落ち着かなさ。「囁き」三部作の完結編にふさわしい、不穏な余韻を残す一冊です。
こんな人におすすめ
心理サスペンスの緊張を好む読者、事件の謎と登場人物の内面が同時に進む物語に惹かれる読者に向いています。館シリーズとは別の、怪奇と幻想の色が濃い綾辻行人を読みたい人にも合います。
『緋色の囁き』『暗闇の囁き』と読んできた人は、そのまま三部作の完結編へ進めます。逆に、明るく後味のよい読み物を求める気分のときには、この黄昏の色は少し重たく感じられるかもしれません。
それでも、三部作の締めくくりとして、本作の余韻は確かめておく価値があります。
作品の背景
綾辻行人は、『十角館の殺人』に始まる館シリーズの長編と並行して、怪奇と幻想の色を前に出した「囁き」の連作を書き継いできました。『緋色の囁き』が1988年、『暗闇の囁き』が1989年9月に、どちらも祥伝社のノン・ノベルから出ています。
そして本作が1993年に出て、三部作は完結します。
現行版は講談社文庫の新装改訂版で、電子版もあります。第1作『緋色の囁き』が2020年12月、第2作『暗闇の囁き』が2021年5月と、講談社文庫の新装改訂版が順に出ており、完結編の本作も同じ新装改訂版の形で三部作の棚に並んでいます。
手に取るなら
現行版は講談社文庫の新装改訂版。「囁き」三部作の刊行は、1988年、1989年、1993年。
三作を通して綾辻行人のもうひとつの顔を確かめたいなら、『緋色の囁き』から刊行順に手に取るのが自然です。兄の死を受け入れられなかった医学生の違和感に付き添って、三部作の最後の黄昏まで歩いてみてください。
綾辻行人について
綾辻行人は1960年、京都市の生まれです。京都大学教育学部に進んで京大推理小説研究会に所属し、のちに妻となる小野不由美と同期でした。
研究会には我孫子武丸や法月綸太郎も在籍しています。大学院在学中の1987年に『十角館の殺人』でデビューし、この一作がのちに「新本格」と呼ばれる流れの起点になりました。
1992年には『時計館の殺人』で第45回日本推理作家協会賞(長編部門)を、のちには第22回日本ミステリー文学大賞を受けています。
奇妙な館を舞台にした館シリーズを書き継ぐ一方で、囁きシリーズや『殺人鬼』、『Another』、『深泥丘奇談』の連作など、恐怖と怪奇を主眼に据えた作品にも長く取り組んできました。漫画家の楳図かずおを「わが心の師」と公言しており、謎解きの骨組みを組み上げる仕事と、怖さを描く仕事を並行して続けてきた作家です。
書誌情報
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