盗みに入った元泥棒。
絞首商會
大正の東京で元泥棒が探偵役。容疑者4人の共通点は事件解決への熱心さ
元号が大正だったころの東京に、ひとつの殺人事件が置かれています。殺されたのは血液学の権威、謎解きを頼まれたのは、かつてその屋敷に盗みに入った元泥棒。
夕木春央『絞首商會』は、探偵と泥棒という本来なら向かい合うはずの役どころを、一人の人物に重ねたところから幕を開けます。第60回メフィスト賞を受けた、作者のデビュー作です。
物語の入り口
舞台は大正の東京。和と洋が入り交じる時代の空気のなかで、事件は起こります。
中心にいるのは、血液学研究の大家、村山博士です。博士には、秘密結社「絞首商會」との関わりが以前から囁かれていました。
噂の域を出ないその名前が、刺殺という形で現実の事件と重なります。題名にもなった結社の名が、事件の前提に置かれています。
ただの殺人事件で片づかないのは、現場に不可解な点が三つ残されていたからです。ひとつは、遺体が動かされていたこと。
もうひとつは、鞄の内側がべっとりと血に濡れていたこと。そして三つめは、事件そのものの外側にあります。
遺族が解決を託した相手が、以前この邸に盗みに入った元泥棒だったのです。遺体の位置、鞄の中の血、依頼の相手。
性質の違う三つの謎が、ひとつの事件に同居しています。
依頼を受けるのは、蓮野という元泥棒です。頭脳明晰で、見目麗しく、そのうえ世の中を厭うている。
被害者の家に忍び込んだ過去を持つ男が、今度はその家の遺族から頼まれて犯人を探すことになる——依頼の相手そのものが、三つめの不可解として数えられているわけです。
調べを進めるうちに、元泥棒は四人の容疑者を見出します。その四人に共通していたのは、事件の解決に熱心過ぎる、という一点でした。
協力を惜しまない人々が、そろって疑いの輪の内側にいる。読み手は、厭世家の元泥棒と並んでこの四人の熱心さを眺める位置に立たされます。
三つの不可解と四人の容疑者。事件の輪郭は、この二つの数字とともに差し出されます。
読みどころ
読みどころは、元泥棒を探偵役に据えた配役そのものにあります。
謎を解く側に立つのは、かつて被害者の家に盗みに入った人物で、しかも世を厭う男です。一方、疑われる側に並ぶのは、事件の解決に熱を上げる四人。
熱の向きが、探偵と容疑者とで逆さまになっているのです。犯人を捜す者の側に危うい前歴があり、捜される者の側に過剰な協力がある。
この食い違いが、事件の顔ぶれを眺める目を、最初から落ち着かないものにしています。
もうひとつは、謎の立て方です。遺体の移動、鞄の内側の血、元泥棒への依頼という三つの不可解は、現場の物証と、依頼という人の選択とにまたがっています。
物の謎と人の謎がひとつの事件に並べられ、そこに秘密結社の噂が重なる。どれか一つを追えば片づく事件ではなく、読み手は性質の違う三つの問いを同時に抱えたまま、元泥棒の調べに付き合うことになります。
この作品が第60回メフィスト賞を受け、作者の名を世に出しました。
大正という時代の選び方も効いています。血液学の大家がいて、秘密結社の名が囁かれ、かつて邸に忍び込んだ男が今度は遺族から解決を頼まれる。
学問と噂と前歴とが一軒の邸をめぐって交差する構図は、和と洋が入り交じる時代の東京に置かれることで、いっそう据わりがよくなります。2019年にデビューした作者が、最初の作品の舞台に選んだのが、百年ほど前のこの時代でした。
こんな人におすすめ
『方舟』で夕木春央を知り、作者の出発点を確かめたい人に。大正の東京を舞台にした謎解きを探している人、癖のある探偵役に惹かれる人にも向いています。
遺体の移動、鞄の中の血、元泥棒への依頼と、並べられた不可解を一つずつ自分で検討していく読み方が好きな人にも薦められます。このシリーズを順に追いたい人にとっては、ここが最初の一歩になります。
作品の背景
夕木春央は2019年、「絞首商會の後継人」の題で第60回メフィスト賞を受賞し、題を改めた『絞首商會』が同年9月に講談社から四六判402ページで刊行されました。これが作家としての出発点です。
蓮野を探偵役に据え、その周りの人々を描く大正もののシリーズは、ここから始まりました。同じ系列の作品として、『サーカスから来た執達吏』『サロメの断頭台』『時計泥棒と悪人たち』が書かれています。
手に取るなら
現在手に取るなら、2023年1月刊の講談社文庫版で、448ページ。文庫化にあたって一部に加筆・修正が施されており、電子版も同じ日に配信されています。
単行本は2019年の四六判です。シリーズの第1作なので、蓮野とその周りの人々に出会うならこの巻から入るのが順当でしょう。
熱心過ぎる四人と厭世家の元泥棒が向き合う大正の東京へ、まずはこの第1作から足を踏み入れてみてください。
夕木春央について
夕木春央は1993年生まれの推理作家です。有栖川有栖の創作塾で長編を書き上げる経験を積み、2019年に第60回メフィスト賞を受け、受賞作を改題した『絞首商會』でデビューしました。
書き継いでいる系列は二つあります。一つは『絞首商會』『サーカスから来た執達吏』『サロメの断頭台』などの大正時代を舞台にしたシリーズで、十代のころから親しんだ江戸川乱歩や明治大正の文学の空気を下敷きにしています。
もう一つは現代を舞台にした作品で、2022年の『方舟』が週刊文春ミステリーベスト10の国内部門とMRC大賞2022で1位となり、作者の名を広く知らしめました。続く『十戒』も同じ路線の作品です。
特殊な状況を設定し、その状況でしか起こりえない出来事を探るという発想の順序を、作者自身が語っています。
書誌情報
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