墓まで持っていこうとした。
シャーロック・ホームズ 絹の家
コナン・ドイル財団公認のホームズ公式続編第1作。原典の文体で甦った晩年のワトスンの回想録。
ガス灯と辻馬車のロンドン、ベイカー街221Bの暖炉のそば。もう若くはないワトスンが、生前には決して公表しなかった、もっとも衝撃的な事件を書き残そうとしている——『シャーロック・ホームズ 絹の家』は、そんな回想の枠組みから始まる、正典のすぐ隣に立つホームズ譚です。
原題は The House of Silk。原書は2011年に刊行され、コナン・ドイル財団が公式に承認した初のホームズ長編として、世界中のホームジアン(シャーロッキアン)の注目を一身に集めました。
物語の入り口
物語の入り口は、二重になっています。まず外側の枠として、晩年のワトスンがペンを執る。
若き日の相棒との日々を、遠い時間の向こうから改めて記録していく——その語りの温度が、ページを開いた瞬間から効いてきます。そして内側では、現役のホームズとワトスンが動き出す。
事件の発端は、米国を行き来する美術商エドマンド・カーステアーズがベイカー街221Bを訪ねてくるところから。彼はアメリカで凄絶な出来事に巻き込まれ、からくもイギリスへ戻ってきたばかりでした。
ところが、安堵もつかの間、新妻を迎えたばかりのロンドンの家に、不審な男の影が忍び寄る。玄関先をうろつき、じっとこちらの様子をうかがうその影は、いったい何者なのか。
ボストンのギャングが海を越えて追ってきたのか——そんな怯えを抱えたカーステアーズの相談を、ホームズは引き受けます。異国での因縁が、霧のロンドンにまで尾を引いてくる。
その不穏な導入だけで、読者はもう物語の内側に足を踏み入れています。捜査の手足として動き出すのは、おなじみ「ベイカー街不正規隊」の少年たち。
ロンドンの路地を知り尽くした彼らに探索を命じ、ホームズは一件の輪郭を少しずつたどり始めます。そしてその過程で、ホームズとワトスンの前に「絹の家(ハウス・オブ・シルク)」という言葉が、繰り返し姿を現すようになる。
それが何を指すのか、どこへ通じているのか。読者はワトスンの筆に導かれるまま、19世紀末ロンドンの霧の奥へと、探偵たちと肩を並べて踏み込んでいくことになります。
読みどころ
まず驚かされるのは、文体が正典に驚くほど近いことです。 ワトスンの語り口、ホームズの仕草、221Bの暮らしぶり、辻馬車の走る石畳の街並み——ホロヴィッツは原典の呼吸を丁寧に写し取りながら、現代の読者にも読みやすいリズムを作っています。
「これはたしかにワトスンの記録だ」と自然に信じさせてしまう手つきこそ、財団が彼を選んだ理由をそのまま証明する仕事だと言えるでしょう。一方で、事件を組み立てる骨格は現代の本格作家のものです。
手がかりの配置、捜査の段取り、緊張の高め方。素朴な味わいの古典長編とは別の、いまの読者を飽きさせない構成の張りが通っています。
懐かしさと新しさが同じ一冊の中で無理なく同居している——そのバランスの妙が、本書のいちばんの読みどころです。原典が積み上げてきた約束事を守りながら、現代の長編小説として最後まで読ませる。
その両立は、口で言うほどたやすくありません。正典を愛する読者ほど厳しい目で細部を見てしまうものですが、本書はその視線に真正面から応えようとする誠実さで貫かれています。
どんな読者に届くか。ホームズ正典をひととおり読み終えて、あの世界にもう一度戻りたい方には、間違いなく効きます。
逆に、ホロヴィッツの現代英国本格から入って、そこからホームズ系へ遡ってみたい方の入り口としても具合がいい。ヴィクトリア朝末期ロンドンの空気そのものを味わいたい、という動機だけでも十分に元が取れます。
強いて言えば、原典を一作も知らないまっさらな状態より、ホームズの声や気配をどこかで浴びたことのある人のほうが、正典に寄せた語りの旨みを深く楽しめるはずです。
作品の背景
コナン・ドイル財団がホームズ公式長編の書き手としてホロヴィッツを選んだ背景には、原典への長年の愛着と、古典英国ミステリの細部を再現できる脚本家としての確かな腕があったとされています。名探偵の正統な後継を誰に託すか——その問いに対して財団が出した答えであり、同時に、その依頼に対するホロヴィッツ自身の返答でもある。
本書はそういう位置に置かれた一冊です。
手に取るなら
日本語版はKADOKAWA・角川文庫、駒月雅子訳で2015年に刊行されました。Kindle版も配信されており、入手はいたって容易です。
駒月訳は古典ホームズ譚の格調と現代英米ミステリの読みやすさをうまく両立させていて、正典の翻訳に長く親しんできた読者でも、ほとんど違和感なくこの世界へ入っていけるはずです。本書のあとには、続編にあたる『モリアーティ』(原書2014)も控えています。
ホロヴィッツの「ホームズ作家」としての顔を確かめる、その最初の一歩にふさわしい一冊です。
アンソニー・ホロヴィッツについて
アンソニー・ホロヴィッツは1955年生まれのイギリスの作家・脚本家です。少年スパイを主人公にしたヤングアダルト小説〈女王陛下の少年スパイ! アレックス〉シリーズをベストセラーに育てました。
テレビでは『名探偵ポワロ』や『バーナビー警部』の脚本を書き、『刑事フォイル』では企画から脚本までを担っています。
2011年にはコナン・ドイル財団の公認を得てホームズ物の新作長編『シャーロック・ホームズ 絹の家』を発表し、2015年からはイアン・フレミング財団の依頼でジェームズ・ボンドの新作も手がけました。自前の探偵を立てた本格ミステリでは、『カササギ殺人事件』に始まるシリーズと、作者自身が語り手として登場する〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズを書き継いでいます。
日本では2018年から4年続けて主要な年末ミステリランキングの1位を占めました。2022年には大英帝国勲章(CBE)を受けました。
書誌情報
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