遺した楽譜は暗号だった。
敗北への凱旋
戦後に残された男の死と音楽をたどり、失われた人生の重みへと引き込まれます。
戦争が終わって間もないクリスマスイブの夜、まだ焼け跡の残る横浜の中華街で、片腕の男が殺されているのが見つかります。男はかつて、ピアニストになる道を歩んでいた人でした。
その道を、戦争が断ちました。連城三紀彦『敗北への凱旋』は、男がいつ右腕を失い、なぜ名前を捨て、どうしてこの死に行き着いたのかを追う物語です。
手がかりは、男が遺した楽譜。そこに書き込まれた暗号が、謎を解く糸口になります。
1983年に講談社ノベルスで出た初期の作品が、2021年に創元推理文庫に入りました。解説は米澤穗信が書いています。
物語の入り口
クリスマスイブの夜、横浜の中華街で、片腕の男が殺されて見つかります。終戦から間もない街には、まだ焼け跡が残っています。
男は、ピアニストになるはずの人でした。その道の途中で戦争に遭い、音楽を断たれた。
片腕の遺体という発見の状況が、まず問いを立てます。右腕を失ったのはいつ、どのような事情だったのか。
なぜ名前を捨てたのか。そして、なぜこのような最期に至ったのか。
物語が立てる問いは、この三つです。
男は、楽譜を遺していました。その楽譜には、メッセージが仕組まれています。
音を聴くためのものが、ある人の過去へ近づくための道になる。ピアニストを目指していた男が遺したのが、ほかでもない楽譜だったこと——その取り合わせが、事件に最初の陰影を与えています。
祝いの夜であるはずの降誕祭前夜に、焼け跡の街で見つかった死であることも、その翳りをいっそう深くしています。
ひとりの死を調べることは、その人が失った未来に触れることでもあります。死体として発見された人を、才能と未来を持っていた人として考え直す。
この切り替わりが、冒頭の設定だけで胸に引っかかります。戦後という言葉を、遠い時代の区切りとしてだけでは受け取れなくなる。
そういう入り口を持つ物語です。
読みどころ
この作品の魅力の核は、暗号という頭で解くべき仕掛けと、断たれた人生という胸で受け止めるべき事実が、同じ楽譜の上に重なっているところにあります。 暗号を解けば、戦時下の犯罪が見えてくる。
けれども、その楽譜を書いたのは、ピアニストになれなかった男です。解読の手続きを進めるほど、書いた人間の時間に近づいていく。
頭の作業と、胸の作業が、別々に進みません。暗号を解くことは、その男がどのような時間を生きたかを知ることと同じ道筋を辿ります。
音楽の道を断たれた男と、男の手もとに残った楽譜。その組み合わせが、謎解きの手順そのものに哀感を帯びさせています。
もうひとつは、時代の置き方です。終戦から間もない横浜という舞台は、刊行された1983年の時点ですでに四十年近く過去のものでした。
それからさらに年月を経て、いま創元推理文庫で読まれています。遠い時代の話であるはずなのに、将来を奪われた一人の男という入口が、歴史と個人のあいだの距離を縮めてくれます。
焼け跡の街も、片腕の男も、抽象的な「戦後」ではなく、具体的な人と場所として立ち上がります。
舞台の選び方にも目が行きます。クリスマスイブという祝いの夜、港町横浜の中華街、そしてまだ片づかない焼け跡。
華やぎと荒廃が同じ一角に並ぶ場所で、音楽を奪われた男の死が見つかる。その明暗の対比が、冒頭から物語の色を決めています。
協会賞を受けた短編の書き手が、戦後の横浜と一人のピアニストの人生を材料に組み立てた長編で、暗号の手続きを追う頭の作業と、断たれた人生を受け止める胸の作業が、最後まで同じ速さで進みます。
作品の背景
この作品は、1983年11月に講談社ノベルスから出ました。連城三紀彦の長編としては、1979年の『暗色コメディ』に続く2作目です。
1986年8月に講談社文庫、1999年3月にハルキ文庫と版を移し、2007年8月には〈綾辻・有栖川復刊セレクション〉の一冊として講談社ノベルスで復刊されました。2021年2月には、創元推理文庫から改めて刊行されています。
手に取るなら
現行版は創元推理文庫で、巻末には米澤穗信の解説が付いています。『戻り川心中』など連城の短編を読んできて長編へ進みたい人にも、楽譜と暗号という題材に惹かれる人にも向いています。
事件の筋を追いながら、時代に翻弄された一人の人生にも目を向ける。そういう読書の時間を、まず用意してみてください。
連城三紀彦について
連城三紀彦は1948年、名古屋市の生まれです。本名は加藤甚吾で、早稲田大学政治経済学部を卒業しています。
短編「変調二人羽織」が第3回幻影城新人賞に入選し、同作が『幻影城』1978年1月号に載って世に出ました。1981年に「戻り川心中」で第34回日本推理作家協会賞(短編部門)、1984年には『宵待草夜情』で第5回吉川英治文学新人賞、『恋文』で第91回直木賞を受けています。
大胆な仕掛けと叙情の濃い文章を一つの作品のなかに同居させる作風で知られ、ミステリの技法を心の機微の描写に生かした恋愛小説でも評価を得ました。直木賞のあとは大衆小説に軸足を移しながら、誘拐ものや心理劇などのミステリも書き続けました。
1987年に得度した真宗大谷派の僧侶でもありました。1996年には『隠れ菊』で柴田錬三郎賞を受けています。
2013年10月に65歳で亡くなり、翌年、日本ミステリー文学大賞特別賞が贈られました。
書誌情報
連城三紀彦をもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本