消えた。一人、また一人。
ホッグズ・バックの怪事件
連続失踪の謎を、フレンチ警部が手がかりを頁番号付きで列挙して解く徹底フェアの逸品。
くつろいで新聞を読んでいた人が、その三分後には姿を消している。引退した医師ジェームズ・アールの失踪は、そんな不可解な一点から始まります。
イングランドの町の、なんの変哲もない一軒の家。そこから男が一人、まるで空気に溶けるように消えてしまう。
やがて周囲から次々と失踪者が現れ、事件は連続失踪の様相を帯びていきます。そして終章、スコットランドヤードのフレンチ警部が、真相を支える手がかりを一つ残らず読者の前に並べてみせる。
読者への公正さをどこまでも突き詰めた、黄金期英国のフェアプレイの逸品です。
物語の入り口
フレンチ警部は、クロフツが第5作『フレンチ警部最大の事件』で初めて登場させ、以後クロフツ作品の看板を背負う名探偵として定着しました。手がかりを一つずつ拾い上げ、それを読者の目の前で組み立ててみせる——そんな公正な謎解きを信条とする警部です。
物語の舞台は、イングランドののどかな町です。引退して穏やかな余生を送っていたはずの医師ジェームズ・アールが、ある日、自宅から忽然と姿を消します。
妻が居間でその姿を見てから、わずか三分ほどのこと。新聞を広げてくつろいでいた男が、ほんの少し目を離した隙に、どこへともなく失われてしまったのです。
ごくありふれた午後の、ごくありふれた居間から、人が一人、音もなく抜け落ちてしまう。
不可解なのは、その消え方だけではありませんでした。失踪の数日前、アールは見知らぬ女性と連れ立っているところを人目に触れていたのです。
妻も知らない相手との、ひそやかな時間。とすれば、これは誰にも告げられぬ駈落ちだったのか。
それとも、何者かの手による誘拐なのか。加えて、彼が書いていたという原稿の存在も、周囲の首をかしげさせます。
穏やかな引退医師の暮らしの裏側に、いったい何が潜んでいたのか。答えの出ないまま、疑問だけが積み上がっていきます。
そして事態は、そこで止まりませんでした。アールに続いて、また一人、さらにまた一人と、周辺から人が消えていくのです。
ひとつの失踪では片づかない連鎖へと膨らみ、やがて地元の警察の手にはとうてい負えなくなる。そこで乗り出してくるのが、スコットランドヤードのフレンチ警部でした。
読者は、消えた人々が残していった断片を警部とともに一つずつ拾い集めながら、この静かな町のどこに底が抜けているのかを見定める側に立たされることになります。
読みどころ
本作の白眉は、終章に置かれた手がかりの総ざらえにあります。 事件が解かれたあと、フレンチは自らの推理を支える手がかりを一つずつ数え上げていきます。
その数、実に64。しかもそれぞれに、本文の何頁で示されたかという頁番号まで添えられているのです。
この結論は、あなたが読んだこの場面とこの場面から導ける——そう読者に検算を促すかのような、徹底したフェアプレイ。真相を知ったうえでページをめくり直せば、確かに手がかりはそこにあった、と唸らされる作りになっています。
この律儀さは、フレンチ警部という探偵の資質とも響き合っています。派手な逆転劇ではなく、手がかりの積み重ねで真実へにじり寄っていく。
本作が警察捜査小説の早い実例として名を残しているのも、この手がかりの示し方の律儀さゆえでしょう。閃きの魔法ではなく、証拠と論理だけで組み上げられた解決を味わいたい読者には、これ以上ない一冊と言えるでしょう。
その一方で、スピード感やめまぐるしい展開を求めて開くと、この作品の歩みは少しゆっくりに感じられるかもしれません。魅力の核心は、捜査の細部をともに踏みしめ、最後に差し出される手がかりの束を自分の記憶と照らし合わせるところにあります。
謎解きを一種の知的なゲームとして、盤面をじっくり眺めたい読者にこそ、その真価は届くはず。逆に言えば、腰を据えて論理を追う構えさえあれば、1933年に書かれたとは思えないほどフェアな手応えが待っています。
作品の背景
本作『ホッグズ・バックの怪事件』は、フレンチ警部シリーズの第十作。1933年の作品にあたります。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫版です。巻末には大庭忠男による訳者あとがきを収録。
フレンチ警部の活躍はほかにも『クロイドン発12時30分』『サウサンプトンの殺人』『フレンチ警部と毒蛇の謎』などで読めますから、本作でこの実直な名探偵の捜査ぶりが気に入ったなら、シリーズをたどっていく愉しみも待っています。読者への公正さという一点において、黄金期ミステリのひとつの到達点を示してくれる作品です。
F・W・クロフツについて
F・W・クロフツは1879年にアイルランドのダブリンで生まれ、1957年に亡くなりました。アルスター地方で育ち、同地で鉄道技師として働いていましたが、40歳のころ病を得て長い療養を強いられ、その間に書いた『樽』が1920年に世へ出て評判を呼びます。
以後も技師の仕事を続けながらほぼ年に1作のペースで長編を発表し、50歳で職を退いてからは作家業に専念しました。
第5作『フレンチ警部最大の事件』で生まれたフレンチ警部が、以後の長編を通じての探偵役です。天才的なひらめきではなく、足を使った聞き込みと裏づけを積み重ねてアリバイを崩していく作風で、黄金期の英国探偵小説のなかでも写実を重んじる書き手として知られます。
犯人の側から描いた『クロイドン発12時30分』も代表作に数えられます。
書誌情報
F・W・クロフツをもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本