ミステリーとしての読みどころ
静かな田舎屋敷に住み込んだ若い家政婦の目を通して、夫婦のあいだに張り詰めた空気がゆっくりと立ちのぼる——そんな穏やかな幕開けの奥で、やがてフレンチ警部が二つの密室に向き合うことになります。アリバイ崩しの名手として鳴らしたF・W・クロフツが、得意の領分をいったん離れ、真正面から不可能犯罪に挑んだ一作。
邦題『二つの密室』が告げるとおり、ここでは密室そのものが物語の主役です。
著者について
クロフツという作家の来歴は、少しばかり変わっています。1879年、アイルランドのダブリンに生まれ、もともとは鉄道技師として働いていました。
ミステリを書き始めたのは、病を得て長い療養を強いられた時期のこと。その静養のあいだにじっくり構想を練った『樽』を1920年に世へ送り出すと、これが大きな評判を呼びました。
以後、『ポンスン事件』『製材所の秘密』と着実に作品を積み上げ、第5作『フレンチ警部最大の事件』で、のちに自らの代名詞となる名探偵を生み出します。地道な捜査と裏づけを一つひとつ重ね、揺るがぬに見えたアリバイを崩していく——その手堅い捜査ぶりで、クロフツは黄金期を代表する書き手のひとりに数えられます。
『クロイドン発12時30分』をはじめ、堅牢な論理で組み上げられた代表作は数多い。そのアリバイ崩しの名手が、あえて密室という別種の難問に正面から挑んだのが本作です。
物語の入り口
物語は、アン・デイという若い女性の視点から静かに動き出します。両親を亡くし、つましく身を立ててきた彼女が新たに迎えられたのは、英国の田舎にたたずむフレイル荘でした。
願ってもない条件のこの職に、アンはさぞ胸をなでおろしたことでしょう。新しい暮らしへの期待を胸に、彼女は屋敷での日々を踏み出します。
夫人の意向をていねいにくみ取りながら家政を切り盛りし、一家の生活を内側から支えていく——表向きは、そんな穏やかな勤めのはずでした。ところが屋敷で時を重ねるうちに、アンは主人夫妻のあいだに漂う名状しがたい空気を感じ取るようになります。
言葉にはならない、けれど確かにそこにある小さなさざなみ。誰も口にしないその緊張が、日ごとに少しずつ濃さを増していくのです。
読者はアンの肩ごしに、その不穏さが屋敷を覆っていくさまを見守る位置へと導かれます。何かがおかしい——そう感じながらも、それが何なのかはまだ判然としない。
この宙ぶらりんな居心地の悪さが、物語の前半をじわじわと満たしていきます。
やがて、その静けさを破って屋敷を事件が襲います。地元の検死官はアンの様子にどこか引っかかるものを覚え、ロンドンからフレンチ警部の出馬を促すことになります。
ここで物語は、家政婦の暮らしを追ってきた前半から、警部の捜査を軸とする後半へと、するりと重心を移していきます。屋敷の内側からしか見えなかった不穏の正体が、外からやってきた捜査官の冷静な目によって、今度は解くべき事件として捉え直されていく。
この視点の受け渡しが、じつになめらかで巧みです。そして腰を据えて謎と向き合うフレンチの行く手には、越えなければならない二つの不可能犯罪が待ち構えています。
読みどころ
本作のいちばんの読みどころは、アリバイ崩しの達人が密室に挑むという、その配役の妙にあります。 フレンチ警部は、ひらめき一発で真相を言い当てる名探偵ではなく、丹念な検証を積み重ねて謎へにじり寄っていく捜査官です。
その実直な手法が、密室という華やかな難物とぶつかったとき、どんな解決を導くのか。クロフツはこの謎に、機械的なトリックと心理的なトリックを組み合わせて挑みました。
毛色の異なる仕掛けをひとつの作品に同居させるところに、本作ならではの企みがあります。しかもクロフツはこの一作を、原書では解答部分のページを封緘した状態で世に送り出したとも伝えられます。
読者よ、その封を切る前に自分で解いてみよ——そんな挑戦状めいた趣向まで含めて、シリーズのなかでも密室ものとして名を知られた一編です。
もっとも、本作の持ち味は派手な意外性よりも、捜査そのものの手ざわりにあります。フレンチが証拠を一つずつ吟味し、可能性をつぶしながら真相へ近づいていく足取りには、アリバイ崩しで鍛えられた作者ならではの粘り強さが息づいています。
地に足のついた警察捜査を、腰を据えて味わいたい読者にこそ向く一冊です。逆に、めまぐるしい展開や鮮烈なアクションを求めて開くと、その静かな歩みはいくぶん悠長に映るかもしれません。
ただ、その丁寧さこそがクロフツの真骨頂であり、堅実な足取りの果てに真相へたどり着く瞬間の手ごたえは、また格別のはずです。
手に取るなら
いま手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫で読めます。フレンチ警部が活躍する長いシリーズの一編で、アリバイ崩しの印象が強いクロフツの、もうひとつの顔をのぞかせてくれる作品です。
この警部を気に入ったなら、『クロイドン発12時30分』をはじめとする他の事件簿へ読み進む楽しみも待っています。名探偵の推理を追う正統的な謎解きと、黄金期英国の落ち着いた気配を一度に味わいたいなら、これほど過不足のない一冊もそうはありません。