ミステリーとしての読みどころ
歴代のジェームズ・ボンド俳優のマスクをかぶった強盗団が、貸金庫を襲う。彼らが残していったのは、身元不明の遺体と、一体の鼠の置物だけ。
異様な忘れ物を現場に置いて、犯人たちは夜の闇へ消えていきます。ワシントン・ポーとティリー・ブラッドショーが挑むのは、その三年後に動き出す、国家の緊張と地方の殺人が交差する事件です。
著者について
著者はM・W・クレイヴン。ワシントン・ポー&ティリー・ブラッドショー・シリーズは、英国湖水地方カンブリアを舞台に、不器用な刑事ポーと天才分析官ティリーの凸凹コンビが難事件に挑む警察小説として読み継がれてきました。
ぶっきらぼうで組織になじまないポーと、他人との距離のつかみ方は不器用でもデータの前では誰より鋭いティリー。噛み合わないようでいて、決定的な場面では互いの欠けを埋め合うこの二人の関係が、シリーズを追う楽しみの中心にあります。
本作『グレイラットの殺人』はその第4作にあたり、原書は2021年に『Dead Ground』の題で刊行、邦訳は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫から2023年に東野さやか訳で世に出ています。原書はCWAのイアン・フレミング・スティール・ダガー賞(2022年)を受けており、シリーズがより大きな舞台へ踏み出した一冊として評価されました。
冒頭を飾るのは、先に触れた奇妙な銀行強盗の場面です。歴代のボンド俳優のマスク、身元のわからない死体、そして一体の鼠の置物。
犯人たちはこの取り合わせを現場に残して姿を消し、読者はいきなり、意味のつかめない断片を手渡されることになります。なぜ強盗が遺体を置いていくのか、鼠にどんな意味があるのか——問いだけが宙に浮いたまま、物語は動き出します。
そこから時計の針は三年進み、主舞台であるカンブリアへと移ります。折しもこの地方では、世界の首脳が集うサミットの開催が目前に迫っていました。
厳戒態勢の敷かれた土地です。ところが、要人を搬送するヘリコプター会社の社長が殺害される。
テロの影を警戒する政府は、この一件の捜査をポーに命じます。地方の一警官が、突如として国家規模の警戒態勢のただ中に立たされるわけです。
しかも捜査は、初手から思うように運びません。国家機密の壁がそびえ、MI5の妨害が行く手をふさぐ。
開示されない情報、踏み込めない領域。動ける範囲はひどく狭く、ポーは苛立ちを募らせながら、それでも事件の芯へ手を伸ばそうとします。
そんな彼が引き寄せられていくのが、三年前のあの強盗事件との関連です。突破口を開くのは、やはりティリー。
彼女が膨大なデータの底から掘り当てた一片が、閉ざされていた捜査に光を差し込ませます。国家の論理と、刑事の執念と、分析官の頭脳。
異なる三つの力が一つの事件の上で拮抗していく——そのせめぎ合いこそ、本作の推進力です。
読みどころ
シリーズが殻を破る瞬間に立ち会える巻です。 前作までのポーとティリーは、英国地方を舞台にした警察ミステリの枠のなかで動いていました。
相手は地元の事件であり、勝手を知った土地であり、顔の見える範囲の関係者だった。ところが本作で二人が向き合うのは、地方警察の論理では割り切れない、諜報と政治の領域です。
情報を握っていても教えてもらえない、正しく踏み込んでも壁に阻まれる——そんな不自由が、これまでとは違う手強さとして立ちはだかります。対峙する相手が国家規模の組織へと変わることで、見知ったはずのコンビが未知の重圧にさらされる。
慣れた武器がどこまで通用するのか、二人自身にも見えないまま前へ進むしかない。その姿を見届けることが、この一冊ならではの手応えになります。
読み味の点でひとつ、あらかじめ伝えておきたいことがあります。本作は書評メディアで「これまでに比べてアクション控えめの、比較的静かな展開を見せる異色作」とも評されてきました。
派手な立ち回りや息継ぎのない急展開を第一に求める読者には、その歩みがやや静かに映るかもしれません。けれど、スケールはむしろ拡大しています。
政治・諜報・国家機密といった要素を背景に沈めながら、手がかりを一つずつ積み上げていく本格ミステリの作法は崩れていません。物語の速度ではなく、視野の広がりで読ませる巻だと考えるとしっくりきます。
逆に、腰を据えてロジックの積み上げを味わいたい読者や、なじんだ登場人物が新しい領域で試される姿を見たい読者には、静かさそのものが美点に映るはずです。
手に取るなら
シリーズは『ストーンサークルの殺人』『ブラックサマーの殺人』『キュレーターの殺人』と続き、本作を経て『ボタニストの殺人』へと連なっていきます。第1〜3作でポーとティリーの関係を見てきた読者ほど、この巻がシリーズにとってどんな踏み出しなのかを実感できるはずです。
ハヤカワ・ミステリ文庫(東野さやか訳)で手に取りやすく、Kindle版も用意されています。カンブリアの湖水地方から国家の暗部へ——見慣れたコンビが新しい海図を広げる一冊を、シリーズを追ってきた方にこそおすすめします。
ここから始めてもポーとティリーの魅力は十分に伝わりますが、この巻の踏み出しの意味は、前作までの道のりを知る読者にいっそう深く響くはずです。