立ち直りかけた人生があった。
哀惜
地道な聞き込みで死者の輪郭を描き起こす、英国ミステリ巨匠の新シリーズ開幕作。
イギリス南西部、ノース・デヴォンの海岸。波の音のほかに動くもののない渚で、ひとつの死体が見つかります。
『哀惜』は、その一報から静かに動きだす警察小説です。捜査にあたるのは刑事マシュー・ヴェン。
まもなく判明した被害者の身元は、彼にとって遠い世界の名前ではありませんでした。事件は最初の一歩から、捜査官自身の暮らしの圏内へ手を伸ばしてきます。
物語の入り口
物語は、ノース・デヴォンの海岸から動きだします。町のかたわらにひろがる海辺で死体が発見され、マシュー・ヴェンが現場に立つ。
捜査はまず、死んだ男が誰なのかを突き止めるところから始まります。やがて浮かんできた名前は、サイモン。
近頃この町へやってきたばかりの男で、アルコール依存症を抱えていました。そしてここで、事件は思いがけない角度から捜査官に近づいてきます。
サイモンは、マシューの夫が運営する複合施設でボランティアとして働いていた人物だったのです。
サイモンが背負っていたものも、ほどなく明らかになります。かつて交通事故を起こし、子供を死なせている。
その記憶に心を病みながら、それでも彼は立ち直ろうとしていました。この町へ流れ着き、人の役に立てる場所を見つけ、少しずつ日々を建て直そうとしていた男。
その途上が、渚で断ち切られました。悼まれるべき人生が一つ、事件のかたちで放り出されている——冒頭の数十ページで読者が受け取るのは、そういう手触りです。
誰が、なぜ、この男を殺したのか。問いはきわめて単純で、だからこそ答えは遠い。
町へ来て日の浅い人間には、当然ながら地元での過去がありません。人となりを語れる者は限られ、聞き込みで手に入るのは断片ばかりです。
捜査は、サイモンという一人の人物の輪郭を、外側から少しずつ描き起こす作業になっていきます。しかも捜査線上には、自分の伴侶が携わる場所が最初から含まれている。
職務としての距離を保ったまま、身近な領域へ踏み込んでいく居心地の悪さが、マシューの背中にずっと張りついています。読者はといえば、マシューが確かめたことだけを、彼と同じ順番で受け取る位置に置かれます。
先回りして真相を覗ける窓は用意されていません。だからこそ、ひとつの証言が前の証言の意味を書き換える瞬間には、こちらも同じだけ足を止めることになります。
読みどころ
この小説を前へ進めるのは、殺された男がどんな人間だったのかを一歩ずつ確かめていく作業そのものです。 聞き込みと確認の積み重ねが、見えている風景の意味を少しずつ入れ替えていく。
手がかりは特別な場所に隠されておらず、人の暮らしの細部にまぎれて置かれています。端正で緻密、と評される所以はここにあります。
読者に対して筋を通すという一点で、謎解きの作りに揺らぎがない。捜査小説の呼吸で読ませながら、最後まで解かせる姿勢を崩さないところが、この一冊の芯です。
もうひとつ、シリーズの幕開けを最初から読める贅沢も挙げておきたいところです。マシュー・ヴェンという刑事にも、彼が歩くノース・デヴォンの町にも、まだ何の予備知識もない状態で出会える。
人物の関係も土地の空気も、読者と刑事が同じ地点から知っていくことになります。積み上がった前提を後から追いかける必要がないぶん、主人公の判断のひとつひとつを、余計な補助線なしに受け取れる。
一作目にしか許されない出会い方が、ここにはあります。
こんな人におすすめ
相性でいえば、章ごとに事態がひっくり返る速度感や、大きな仕掛けの一撃を求める読者には、この歩幅はゆっくりに映るかもしれません。本作が差し出すのは、死者の輪郭を根気よく描き起こしていく時間の厚みのほうです。
英国の海辺の町の空気ごと事件を味わいたい読者、警察小説の重厚な手触りを好む読者、そして人の来歴に丁寧なページを割く物語を求める読者には、安心して薦められます。謎解きとしての骨格がしっかりしているぶん、手がかりを拾いながら読む楽しみも十分に確保されています。
作品の背景
英国ミステリの巨匠と呼ばれるアン・クリーヴスが、原題 The Long Call として2019年に発表したのが本作で、〈刑事マシュー・ヴェン〉という新しい主人公を立ち上げたシリーズ第1作にあたります。すでに読者を持つ作家が、まっさらな刑事とまっさらな土地を用意して、一から物語を起こす。
その仕切り直しの手つきが、序盤から伝わってくる一冊です。邦訳は2023年、ハヤカワ・ミステリ文庫から刊行されました。
掲げられた「端正で緻密な謎解きミステリ」という一語は、宣伝の飾りというより、この作品の性格をそのまま言い当てた言葉になっています。謎解きの筋道をきちんと通すこと。
捜査の手順を省略しないこと。その二つを最後まで守り抜く小説です。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ文庫。〈刑事マシュー・ヴェン〉シリーズの幕開けにあたる一冊ですから、順番を気にする必要もありません。
海岸で見つかった一人の男の死から、新しい刑事の物語が静かに立ち上がります。その最初の一歩に立ち会える一冊です。
アン・クリーヴスについて
アン・クリーヴスは1954年、イングランド西部のヘレフォードシャーに生まれ、ノース・デヴォンで育ちました。サセックス大学を中退し、フェア島にある野鳥観測所の料理人、沿岸警備の補助員、保護観察官などを経験しています。
1986年に『A Bird in the Hand』でデビューしました。
代表的なシリーズは、ヴェラ・スタンホープ警部のシリーズと、シェトランド諸島を舞台にしたジミー・ペレス警部のシリーズです。後者の第1作『大鴉の啼く冬』は2006年に英国推理作家協会(CWA)のダンカン・ローリー・ダガーを受けました。
2008年にはディテクション・クラブの会員となり、2017年にCWAのダイヤモンド・ダガーを受賞、2022年には大英帝国勲章(OBE)を授与されています。ノース・デヴォンを舞台にしたマシュー・ヴェンのシリーズを含め、3つのシリーズはどれもテレビドラマ化されました。
書誌情報
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