そう見えるように。
五匹の赤い鰊
画家の村で起きた死。六人の容疑者を追うスコットランド舞台の第6作。
画家と釣り人ばかりが集うスコットランドの田舎に、一つの死が投げ込まれます。川辺で冷たくなって見つかったのは、日頃から周囲に疎まれていた風景画家。
名探偵ピーター・ウィムジイ卿シリーズの第6作は、のどかな土地に流れるゆるやかな時間と、その底に沈められた謎とを、静かに重ね合わせていく一編です。
物語の入り口
舞台となるのは、スコットランドのギャロウェイ地方。画家がイーゼルを立て、釣り人が川に糸を垂れる、絵のように長閑な田舎です。
訪れる者の多くもまた、絵筆か釣り竿を携えてやって来る土地柄。そこでは芸術家たちがゆるやかな共同体をつくり、思い思いに筆を走らせている——そんなのんびりとした空気が、まず物語の底に敷かれます。
この土地はセイヤーズ自身が幾度も避暑に訪れた場所でもあり、作中に現れる地名の数々は絵空事ではなく、実在のものが下敷きになっている。序盤はさながら、見晴らしのいい土地をひとめぐりする小旅行のような読み心地です。
その村で、一人の画家が川辺の死体となって発見されます。かたわらには画架が立ち、描きかけの絵が残されていました。
絵に没頭するあまり足を踏み外し、崖から転落したのだろう——現場の様子は、そんな不運な事故を素直に物語っているかに見えます。ところが、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿の見立ては違いました。
これは事故ではない。事故に見せかけて仕組まれた、巧妙な擬装殺人である。
卿がそう看破した瞬間、のんびりと絵筆を握っていたはずの村は、一変して疑いの色に染まっていきます。穏やかだった風景が、にわかに読み解くべき謎の舞台へと姿を変えるのです。
疎まれていた男の死とあって、容疑の目は周囲の画家たちへと向かい、やがて怪しげな六人が容疑者として絞られていきます。この六人のなかから、貴族探偵が名指すのははたして誰なのか。
読者は、絵具の匂いが漂う小さな共同体の内側に立たされ、一人また一人と人物を見定めながら、卿の思索に付き従っていくことになります。互いの顔も暮らしぶりもよく知れた、小さな村のことです。
昨日まで筆と釣り竿を分かち合っていた顔ぶれの、その誰かが素知らぬ顔をしている——うわべの平穏の裏で、疑いは静かに、しかし確実に広がっていくのです。
読みどころ
本作の手応えは、実在の土地と時間の上にぬかりなく組み上げられた、謎解きの堅牢さにあります。 セイヤーズは地名ばかりでなく、鉄道やバスの時刻表に至るまで実在のものを用い、土地と時間の細部を厳密に扱いました。
曖昧な雰囲気で押し切らず、確かめられる事実を一つずつ積み上げていく——その律儀なまでの緻密さは、まさに本格探偵小説の醍醐味と呼ぶにふさわしいものです。手がかりは読者の前にきちんと並べられ、名探偵の推理はその上にだけ築かれていく。
筋の通った謎解きを好む読者ほど、この几帳面な作りには唸らされるはずです。
もう一つの愉しみは、やはりピーター・ウィムジイ卿その人にあります。事故として片づけられかけた死の奥に、仕組まれた企みを見て取った明察の主。
この貴族探偵に導かれて入り組んだ謎を一歩ずつ解きほぐしていく時間には、名探偵に身をあずける古典ならではの、落ち着いた愉しさが満ちています。
ですからこの物語は、細部をゆっくり味わう読書と相性がいいはずです。土地の空気を吸い込み、事実の一つひとつを検分しながら読み進める時間を厭わない人には、静かな満足が待っています。
逆に、息もつかせぬ展開や派手な仕掛けを真っ先に求める向きには、この丁寧な積み重ねが少し悠長に感じられるかもしれません。けれど、その落ち着いた歩みこそが黄金期らしい味わいであり、腰を据えて付き合うほど深まる作りでもあります。
急がず、地図を片手に土地を歩くような気分で頁を開くのが似合います。
作品の背景
本作は1931年に発表されたシリーズ第6作。米国では『Suspicious Characters』の題でも刊行されました。
大家の風格を帯び始めた時期の、いわば後期の劈頭をなす一冊にあたります。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の浅羽莢子訳です。浅羽莢子は東京大学文学部卒の英米文学翻訳家で、キャロル『死者の書』やピーク『タイタス・グローン』『ゴーメンガースト』などの訳書で知られる書き手。
ピーター・ウィムジイ卿シリーズの一編として、黄金期英国ミステリの薫りと、名探偵に寄り添って謎を追う歓びとを、心ゆくまで味わえる確かな一冊です。
ドロシー・L・セイヤーズについて
ドロシー・L・セイヤーズは1893年、オックスフォードの生まれです。オックスフォード大学サマーヴィル・カレッジで中世フランス語を学び、1915年の最終試験で最優等の成績を収めました。
1922年から当時英国最大の広告代理店でコピーライターとして働き、そのかたわら書いた『誰の死体?』で1923年にデビューします。この作品で登場したのが、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿です。
ピーター卿の物語は、『毒を食らわば』で探偵小説作家ハリエット・ヴェインを迎え、『学寮祭の夜』『大忙しの蜜月旅行』へと続いていきます。謎解きに人物や土地の描写を厚く重ねた作風で、クリスティと並ぶ英国黄金期の代表的な作家に数えられ、1930年にはディテクション・クラブの創設にも加わりました。
後年は宗教劇やダンテ『神曲』の英訳に力を注ぎ、1957年に世を去っています。
書誌情報
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