風鈴のように首がぶら下がる。
病院坂の首縊りの家
廃屋で見つかった生首から二十年。時を隔てて事件が動き出す、作中の時系列で金田一耕助の最後にあたる長編です。
写真を撮るだけの仕事でした。昭和28年、東京・高輪。
写真館の長男が頼まれたのは、結婚記念写真の出張撮影です。ただし指定された先は、住む人もない廃屋。
その昔、薄倖の女が首を縊ったという家でした。『病院坂の首縊りの家』は、この一日から始まって、20年という歳月をまたいで決着へ向かう長編です。
金田一耕助の最後の事件として発表された、上下巻の大作でもあります。
物語の入り口
舞台は東京都港区の高輪。明治から戦前まで栄え、「病院坂」という地名にまでなった大病院がありました。
その屋敷跡が旧法眼邸です。その昔、薄倖の女がここで首を縊ったと言い伝えられ、いまは住む人もありません。
坂の名は残り、病院の栄えた日々は過ぎ、屋敷跡だけが取り残されている。そんな場所です。
本條写真館の息子・直吉が、ある晩そこで頼まれたのは、結婚記念写真の撮影でした。廃屋で、結婚の記念写真を。
人の住まない家で祝いの写真を撮るという取り合わせそのものが、すでに不吉な影を帯びています。
数日後、直吉は撮影のため、ふたたび屋敷を訪れます。そこで目にしたのは、鮮血を滴らせ、風鈴のようにぶら下がった男の生首でした。
祝いの写真を撮るために通った屋敷で、次に直吉の目に飛び込んできたのが、ぶら下がる生首だった。晴れがましいはずの記念撮影と、血の滴る首。
その落差が、発端の一夜に焼きついています。読者が座らされるのは、機材を抱えて廃屋に踏み込んだ直吉と同じ、ひとりの目撃者の席です。
写真館の仕事で来ただけの青年が、なぜこの家に呼ばれたのか。その問いさえ、まだ答えを持ちません。
ここから捜査が始まります。ところが、事件は解けません。
迷宮入りのまま、20年の歳月が流れます。上下巻の前後二部という組み立ては、この歳月をそのまま器にしたものです。
前半が最初の事件と行き詰まりまで、後半が長い時を経てからの再燃。時を経て、忘れられかけた事件を掘り起こしにかかるのは、等々力警部と金田一耕助です。
二度目の捜査の席に着くとき、読者の手元には、前半で目にしたはずの光景が残っています。
読みどころ
上下巻を貫いているのは、解けなかった事件が抱え込んだ、20年という空白です。
同じ土地、同じ一族を、二度見せられる——それが本作の骨格です。前半は、戦後の混乱がまだ色濃い昭和28年。
後半は、高度成長を通り抜けたあとの日本。舞台が変わらないぶん、空気の違いが際立ちます。
かつて栄えた大病院の屋敷跡は、そのあいだも同じ坂の上にあり続けます。そこへ戻ってくる等々力警部と金田一の執念は、この二部構成があってこそ効いてきます。
長い物語を読み通した読者だけが、後半の一歩一歩を、前半の記憶と照らして受け取れる仕組みです。
もうひとつは、道具立ての濃さです。首を縊った女の言い伝え、坂の名にまで残った病院、廃屋に吊るされた生首。
横溝作品らしい怪奇の色を惜しみなく並べたうえで、最後は手がかりを積み上げた論理で受け止める。この配合は『獄門島』でも『犬神家の一族』でも変わりませんが、本作ではそれが、20年分の重みを背負って現れます。
「最後の事件」と聞いて、読み手が身構えるのも無理はありません。
一晩で読み切れる謎解きを期待して開くと、上下巻という長さは重く映るかもしれません。けれども、その空白を読者自身の時間として味わえるのは、この長さがあればこそです。
金田一耕助シリーズのなかで、作中の時系列の最後に置かれた一作という位置も、この長編だけのものです。
作品の背景
横溝作品の角川文庫版は1970年代に入ると爆発的に売れ、本作は、その熱のただなかで書かれました。『野性時代』に1975年から1977年まで連載され、単行本は1978年12月、角川書店から。
週刊文春ミステリーベスト10の1978年国内編では第9位に入っています。最後の事件という位置づけは、長く付き合ってきた名探偵の締めくくりとして受け止められました。
もっとも、横溝はこののち『悪霊島』を書いていますから、執筆の順では本作が最後ではありません。作中の時の流れで最後に置かれるのが、この一冊です。
手に取るなら
現在の版は角川文庫の〈金田一耕助ファイル〉で、上下巻、電子版もあります。カバーイラストは杉本一文です。
1979年には市川崑監督、石坂浩二主演で東宝が映画化しています。シリーズを読んでいなくても筋は追えますが、『獄門島』や『犬神家の一族』を先に通っておくと、名探偵の最後の事件という枠組みが、いっそう深く響くはずです。
20年前と20年後、二つの日本を同じ坂の上で見比べる長編です。
横溝正史について
横溝正史は1902年、兵庫県神戸市の生まれです。1921年、雑誌『新青年』の懸賞で一等に選ばれた「恐ろしき四月馬鹿」で世に出て、大阪薬学専門学校を卒業したのち、1926年に江戸川乱歩の招きで上京して博文館に入りました。
『新青年』などの編集長を務め、1932年に退社して作家専業となります。戦前は由利麟太郎を探偵役にした『真珠郎』などを書き、戦時中は岡山県に疎開しました。
戦後、金田一耕助が初めて登場する『本陣殺人事件』で1948年に第1回探偵作家クラブ賞の長編賞を受け、『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』と、金田一ものの長編を書き継いでいきます。1970年代には角川文庫での再刊と映画化が重なって、まったく新しい世代の読者を得ました。
1976年に勲三等瑞宝章を受け、1981年に没しています。
書誌情報
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