ミステリーとしての読みどころ
夜のパリの舗道に、青いチョークで円がひとつ描かれている。輪の内側に置かれているのは、クリップ、人形の頭、しなびたオレンジ——どこかで拾ってきたようなガラクタばかり。
誰が、何のために。意味を読み解こうにも手がかりのない、ただ奇妙なだけの落書きめいた現象から、『青チョークの男』は静かに転がり出します。
著者について
著者フレッド・ヴァルガスは1957年、パリの生まれ。シュールレアリスムの研究者を父に持つ家に育ち、パリ大学で考古学を学びました。
卒業後は国立科学研究所の研究員となり、中世考古学の専門家として遺跡の発掘や講演に明け暮れる日々のかたわら、ミステリを書き始めます。研究者としての顔と作家としての顔を併せ持つこの経歴が、彼女の小説に独特の手ざわりを与えているのは間違いありません。
ミステリの執筆と並行して、イタリアの政治犯のフランス亡命を支援したり、2019年には環境問題への警告の書を世に問うたりと、書斎の外での活動にも精力的な人です。やがて《三聖人シリーズ》と《警察署長アダムスベルグ・シリーズ》という二つの人気シリーズで、フランス語圏の外にも数多くの読者を獲得。
CWA賞インターナショナル・ダガーを四度も受賞している事実は、その評価の確かさを物語っています。本書はそのアダムスベルグ・シリーズの記念すべき第1作にあたり、英訳版は2009年、同じくCWAインターナショナル・ダガー賞に輝きました。
「現代フランス・ミステリ界の女王」と呼ばれる書き手の、原点となった一冊です。
物語の舞台は、夜ごとのパリ。人けの絶えた路上に、いつからか青いチョークの円が現れるようになります。
ひと晩ごとに場所を変えて描かれる輪。その中央には、判で押したように何かしらのガラクタがひとつ置かれている。
ある日はクリップ、別の日は人形の頭、またある日はオレンジ……。実用にも装飾にも見えない、ちぐはぐな品々です。
街の噂は、これを「変わりものの哲学者の気まぐれな悪戯」と受け流します。取り締まる法もなく、被害者もいない、たわいのないいたずら。
多くの人はそう考え、青い円のことなど気にも留めませんでした。
ところが、ある朝のこと。いつものように描かれた円の内側に置かれていたのは、ガラクタではありませんでした。
喉を切られた女性の死体だったのです。奇妙な遊びのように見えていた現象は、一夜にしてまったく別の相貌を帯びます。
そして、それきりでは終わりませんでした。また一つ、また一つと、死体が続いていく。
ここに至って、パリ第五区警察の署長ジャン=バティスト・アダムスベルグが、ようやく捜査に乗り出します。
このアダムスベルグという人物が、実に一風変わっています。論理を積み上げて答えに詰め寄るのではなく、頭の片隅にふと浮かんでは消えるイメージや、理屈にならない直感を頼りに、ふらりふらりと事件へ近づいていく。
せっかちな読者なら焦れったく感じるかもしれない、その飄々とした歩みこそが、シリーズを貫く最大の魅力です。同僚たちの困惑をよそに、彼はまるで夢遊病者のように現場を歩き、周囲が見落とした綻びに立ち止まる。
読者は、この掴みどころのない警視の背中を追いながら、事件の輪郭が見えないまま、パリの夜をともに歩くことになります。
読みどころ
謎解きの醍醐味と、フランス・ミステリならではの妙味を、両手にひとつずつ持たされる一冊です。 端正な本格ミステリの骨格を備えつつ、そこからわずかに逸脱していく、一風変わった味わいは、まさにこのあたりに宿ります。
事件の異様さ、探偵の奇妙さ、そして街そのものが放つ気配。それらが渾然と溶け合って、英米の推理小説とはまた違う手ざわりの読書時間が生まれます。
国際的な賞がこの作品を評価したのも、うなずける完成度です。名探偵の第一作というものは、往々にしてその後の長い旅路の色合いを決めてしまうもの。
本書に漂う独特の空気は、この風変わりな警視という存在なくしては生まれなかったはずです。シリーズの原点を、いちばん瑞々しい形で味わえるのが、この一冊の得がたい価値でもあります。
一方で、相性の話も正直にしておきましょう。緻密な手がかりを一つずつ拾い上げ、盤面を詰めるように犯人を追い込んでいく——そうした数学的な謎解きだけを求めて読むと、アダムスベルグの直感任せの捜査ぶりに戸惑うかもしれません。
この作品が差し出すのは、論理の精密さよりも、雰囲気と人物の妙で読ませる種類の面白さだからです。裏を返せば、癖の強い探偵に付き合うのが好きな読者、謎そのものの手ざわりや街の空気ごと味わいたい読者には、これ以上ないほど馴染む一冊でしょう。
手に取るなら
入手は東京創元社の創元推理文庫で、2006年に邦訳が刊行されています。名物警視アダムスベルグの登場作にして、四度のダガー賞受賞者ヴァルガスのシリーズの出発点。
ここが気に入れば、その先には長い付き合いが待っています。まずはこの青い円から、風変わりな警視との旅を始めてみてください。