ミステリーとしての読みどころ
一度は決着したはずの事件が、時を隔てて自分自身に牙をむく——そんな悪夢が、この物語の主人公を待っています。かつて自らの手で有罪へと導いた男。
その男が「無実だ」と訴えはじめる根拠が、目の前に立ち現れる。刑事にとって、過去に下した判断の正しさほど揺るがされたくないものはありません。
『ブラックサマーの殺人』は、その一点を容赦なく突いてくる一冊です。
著者について
著者はM・W・クレイヴン。本作はワシントン・ポーとティリー・ブラッドショーの凸凹コンビが活躍するシリーズの第2作にあたります。
原書は2019年に『Black Summer』として刊行され、邦訳は2021年、ハヤカワ・ミステリ文庫から東野さやか訳で読めます。シリーズ第1作『ストーンサークルの殺人』は、英国推理作家協会(CWA)が贈るゴールド・ダガー賞を2019年に射止め、一躍注目を浴びた話題作でした。
その勢いをそのまま受け継ぐ続編が本作、というわけです。偏屈だが芯の通った刑事ポーと、天才的な分析能力を持ちながら世間ずれしていないブラッドショー。
噛み合わないようでいて、いざとなると見事に噛み合う二人の関係が、第1作で読者の心をつかみました。本作はその関係を土台に、いっそう踏み込んだ物語を用意しています。
発端となるのは、6年前にポー自身が刑務所へ送り込んだ一人の男です。ジャレド・キートン——かつてカリスマシェフとして名声をほしいままにした人物。
彼は娘のエリザベスを殺害した罪に問われ、有罪判決を受けて服役していました。事件はとうに裁かれ、決着したはずでした。
ところが、です。殺されたはずの娘エリザベスを名乗る女性が、生きて姿を現します。
もし彼女が本物のエリザベスなら、話はまるで違ってきます。娘は死んでなどいなかった。
ならばキートンは、やってもいない殺人の罪で6年ものあいだ牢につながれていたことになる。そして、その事態を招いたのは、ほかならぬポーが6年前に積み上げた捜査だった——。
「キートンは無実なのか?」という問いが、静かに、しかし重く立ち上がります。
厄介なのは、証拠の側がことごとくポーに不利を告げることです。目の前に現れた女性、少しずつそろっていく状況。
そのすべてが「あの判断は間違いだった」とささやくように並んでいく。かつて事件を裁いた張本人が、今度は自分の正しさを疑われる側へと立たされる。
読者はその窮地のただ中に、ポーとほぼ同じ視野で放り込まれることになります。彼が何を確信し、どこで足をすくわれかけているのか。
安全な高みから見下ろすのではなく、追い詰められる当人のすぐ隣で息をひそめて見守る——そういう緊張が、ページを繰る手を止めさせません。
そして、追い込まれたポーを見捨てないのが相棒のブラッドショーです。窮地に立つポーを助けるべく、分析官である彼女が立ち上がる。
データと論理を武器にする彼女が、感情の渦中にいるポーとどう並び立っていくのか。凸凹コンビの持ち味は、危機の局面でこそ際立つものです。
読みどころ
本作の醍醐味は、主人公が「過去の自分」と正面から向き合わされる構図にあります。 第1作のポーは、停職の身で現代の難事件に挑む立場でした。
本作で問われるのは、もっと個人的で逃げ場のないもの——かつて自分が下した判断そのものの正しさです。捜査官としての力量だけでなく、倫理観も、自尊心も、まとめて天秤にかけられる。
シリーズの主人公の内面がこれほど深く掘り下げられる巻は珍しく、ポーという人物を本当に知るうえで外せない一作になっています。
英国の地方を舞台にした重厚な警察小説としての手触りも健在です。派手な閃きひとつで霧が晴れるのではなく、手続きを積み重ね、事実を一つずつ確かめていく捜査の実感が物語の背骨になっている。
冷たい空気の質感まで伝わってくるような筆致は、第1作を気に入った読者なら安心して身をゆだねられるはずです。事件を追うことが、そのまま一人の刑事の来し方をたどることになっていく——その二重の手応えが、読み進める推進力になります。
名探偵の鮮やかな推理を主役に据えたミステリを求める読者には、本作の地に足の着いた歩みはやや渋く映るかもしれません。逆に、主人公が背負うものの重さや、刑事たちの関係のドラマごと味わいたい読者、英国警察小説の重厚な空気に浸りたい読者には、迷わず薦められます。
シリーズものならではの積み重ねを楽しめる人ほど、本作の手応えは深く響くはずです。
手に取るなら
邦訳はハヤカワ・ミステリ文庫の東野さやか訳で手に入りやすく、Kindle版もあります。シリーズは『ストーンサークルの殺人』に始まり、本作『ブラックサマーの殺人』、そして『キュレーターの殺人』『グレイラットの殺人』『ボタニストの殺人』と続いていきます。
理想は第1作から順に追うこと。第1作で芽生えた二人の関係を知ったうえで本作へ進むと、ポーの人物像の陰影が一段と濃く感じられます。
ここまで読み進めれば、次の『キュレーターの殺人』へ手を伸ばさずにはいられないはずです。