戦後昭和国内 2016
IQ208の棋士が挑む。
相手は明治のいろは歌。
『涙香迷宮』竹本健治

書評

涙香迷宮

48首のいろは歌を読み解く、日本語そのものが舞台の暗号ミステリ。

涙香迷宮 表紙画像
竹本健治 講談社(講談社文庫)2016年
目次

いろは48文字を一度ずつ、一文字も余さず使いきって、意味の通る歌を詠めと言われたら、どれほどの時間がかかるでしょうか。一首でも途方に暮れそうなその歌が、48首。

しかも、そこには暗号が仕掛けられている。竹本健治『涙香迷宮』は、この途方もない挑戦状を、IQ208の天才囲碁棋士・牧場智久が受けて立つ物語です。

暗号の材料も、解く手がかりも、日本語そのもの。言葉を相手にした暗号ミステリです。

2016年の刊行から、年末の各種ランキングと本格ミステリ大賞を立て続けに射止めた一作です。

物語の入り口

探偵役の牧場智久は、1980年代の「ゲーム三部作」から登場してきた著者のシリーズ・キャラクターです。囲碁棋士という看板を背負ったこの探偵役が、2016年の本書では明治の暗号に向き合います。

シリーズの一作ではありますが、本書の主役はむしろ暗号そのものです。

発端にあるのは、明治の傑物・黒岩涙香が残した、きわめて難度の高い暗号です。挑むのは、IQ208を誇る天才囲碁棋士・牧場智久。

碁盤の上で勝負してきた人物が、盤の外で、明治の人間の残した謎と向かい合う——物語はこの構図から動き出します。明治に残された謎が、時代を越えて、盤上の勝負師の前に差し出されるわけです。

挑戦状の形がまた変わっています。いろは48文字を一度ずつ、すべて使って作る「いろは歌」。

日本語の技巧と遊び心を、ぎりぎりまで突き詰めた形式です。それが一首ではなく、48首そろっている。

一首を作るだけでも、48の文字を組み替えて意味の通る言葉に仕立てる根気と技が要るはずです。それを48回。

数字を並べるだけで、この挑戦状の重さが伝わってきます。

そして、その48首の中に、途方もない規模の暗号が仕掛けられている。一首ずつでも読みごたえのある歌の群れが、そのまま謎の器になっているのです。

読み手の置かれる位置も独特です。挑戦状が歌の形をしている以上、読者は棋士の少し後ろを歩きながら、同じ歌を自分の目で読み、自分の指で文字を追うことになります。

探偵役の頭脳にすべてを預けてしまうこともできますが、歌が目の前にある以上、ただ待っているのはなかなか難しいはずです。名探偵の推理を待つ時間が、そのまま自分で考える時間にもなる——そこから、この物語の本当の面白さが立ち上がってきます。

読みどころ

本作の核にあるのは、日本語という言葉そのものが、どこまで遊べるのかという問いです。

いろは歌は、48の文字を一度ずつしか使えないという厳しい制約の上に成り立っています。制約が厳しいほど、その中で意味の通る歌を組み上げたときの驚きは大きくなる。

日本語の豊かさと深さがあらためて見えてくるのは、この制約と自由の釣り合いからです。仮名の一つひとつを目で追い、その連なりの中に言葉が立ち上がる瞬間に立ち会う。

謎の答えを待つ楽しみとは別に、言葉遊びそのものを味わう楽しみが、頁のあちこちに埋まっています。

もうひとつは、読み手が手を動かしたくなる作りです。48首を前にすると、つい紙と鉛筆を用意して、自分でも規則を探したくなります。

IQ208の頭脳が答えを出すのを待つだけでなく、同じ材料を並べて考える余地が残されている。答えを急がず、一首ずつ声に出して読んでみるのも、この本ならではの楽しみ方です。

こんな人におすすめ

クロスワードや言葉のパズルに目がない人には、まさに腕試しの一冊です。和歌や古い日本語の響きが好きな人にも、いろは歌という形式の奥深さが新鮮に映るはずです。

シリーズを追ってきた読者にとっては、長い歳月をへて囲碁棋士の探偵に再会する楽しみもあります。一方で、暗号の答えだけを早く知りたい人には、言葉の上を行きつ戻りつする時間がもどかしく映るでしょう。

その往復にこそ付き合える人のための物語です。

作品の背景

2017年、『涙香迷宮』は第17回本格ミステリ大賞の小説部門を受賞しました。1978年の長編デビューから40年近くを経て、竹本健治が手にした大賞でした。

『このミステリーがすごい!』2017年版では国内1位、『週刊文春ミステリーベスト10』2016年の国内3位、『本格ミステリ・ベスト10』2017年版の国内4位と、年末の主要なランキングで軒並み上位に名を連ねています。刊行は2016年3月、講談社からの単行本でした。

手に取るなら

現在手に取るなら、2018年に出た講談社文庫版です。464ページで、紙の本と電子版の両方があります。

暗号の歌を自分でも読み比べたいなら、書き込みやすい紙の本が向いているでしょう。手元に紙と鉛筆を置いて、48首の挑戦状を牧場智久と一緒に受けてみてください。

竹本健治について

竹本健治は1954年、兵庫県相生市に生まれました。東洋大学文学部哲学科に在籍していた1977年、『虚無への供物』の中井英夫の推薦を受けて、探偵小説専門誌『幻影城』で長編『匣の中の失楽』の連載を始め、世に出ます。

新人がいきなり長編を連載するという異例のデビューで、メタミステリの書き手として注目を集めました。

『幻影城』の廃刊後は、天才少年囲碁棋士・牧場智久が登場する〈ゲーム三部作〉を発表し、一時はSFにも活動の場を移します。1991年には作者自身や実在の作家たちを作中に登場させる『ウロボロスの偽書』を刊行しました。

2016年の『涙香迷宮』は「このミステリーがすごい!」2017年版国内編で1位となり、翌年には第17回本格ミステリ大賞を受けています。大学で囲碁研究会に入り、アマチュアの全国大会にも出場した打ち手で、盤上の遊戯はしばしば作品の題材になっています。

書誌情報

出版社
講談社 / 講談社文庫
刊行年
2016
ISBN-13
9784062938723
系譜
戦後昭和国内
受賞歴
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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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