天才で変人。一癖ある名探偵たち ―ホームズから現代の異才まで、変人探偵の海外ミステリー
常識外れの観察眼、奇矯な振る舞い、ずば抜けた頭脳。ベイカー街の元祖から黄金期の巨人たち、現代の異才まで、一癖も二癖もある“変人探偵”が活躍する海外ミステリーを厳選しました。
並外れた頭脳は、しばしば並外れた変人と表裏一体です。社交を厭い、常識を無視し、けれど誰にも見えないものを見てしまう——そんな“一癖ある名探偵”こそ、ミステリー最大の華かもしれません。
すべての始まりであるベイカー街の元祖から、講義好きの博士、法廷に立つ卿、動かない美食家といった黄金期の巨人たち、そして現代のオックスフォードやロサンゼルスを歩く異才まで。会いに行く価値のある変人たちを、海外ミステリーの名作から集めました。奇矯な振る舞いの向こうに、あなたはきっと、惚れ込んでしまう知性を見つけるはずです。
こんな読者のための一冊たち
- 事件そのものより、探偵のキャラクターに惚れたい
- 「この人、変だけど天才だ」と唸らされたい
- 推理の鮮やかさと、人物の面白さを両取りしたい
以下、仕掛けには指一本触れていません。安心してお読みください。
すべての奇人の原点 ―シャーロック・ホームズ
変人探偵の系譜は、すべてこの人から始まりました。まずはベイカー街221Bのドアを叩きましょう。
緋色の研究(アーサー・コナン・ドイル/1887)
異国での従軍に病み衰えて帰国した元軍医ワトスンは、手頃な下宿を探すうち、同じく同居人を探している男を知人づてに引き合わされます。住所はベイカー街221番地B、相手の名はシャーロック・ホームズ。得体の知れない知識を偏って蓄え、妙な実験に没頭し、素性をはかりかねるワトスンをよそに我が道を行く男です。そこへスコットランドヤードから協力の依頼が舞い込み、二人はロンドン郊外の空き家で起きた奇怪な殺人事件へ乗り出していきます。
変人探偵の系譜は、この風変わりな同居人から始まりました。初対面のワトスンに向かって、その経歴をすらすらと言い当ててみせる冒頭の場面。奇矯な振る舞いの向こうに桁外れの頭脳が覗くこの瞬間こそ、後年の名探偵ものが幾度も引き合いに出してきた型の源です。著者が学生時代に師事した外科医ジョセフ・ベル教授は、患者を一目見ただけで職業や来歴を言い当てたと伝わり、その鋭い観察眼がホームズという人物像のひな型になりました。
黄金期の巨人たち ―奇人名探偵、百花繚乱
1920〜30年代の黄金期には、ホームズの血を引く個性派の名探偵たちが次々と誕生しました。博士、卿、貴公子、名優、美食家——性格も流儀もばらばらの五人をどうぞ。
三つの棺(ジョン・ディクスン・カー/1935)
雪の降り積もるロンドンの夜、文学者グリモー教授のもとを、ひとりの男が訪ねてきます。コートと帽子で全身を包み、顔には仮面。長身の、正体の知れない訪問者です。教授はこの客を書斎へ通し、扉が閉じられる。待つ時間は長くは続きませんでした。閉ざされた扉の向こうから銃声が響き、居合わせた者たちが扉を破って踏み込むと、胸を撃たれた教授が絨毯の上に倒れている。そして部屋のどこを見ても、あの仮面の男の姿がないのです。
探偵役のギデオン・フェル博士は、事件がまさに渦中にある第17章でいったん物語を脇に置き、読者のほうへ向き直って、閉ざされた部屋で人が死ぬという不可能を成立させるやり口にはどんな型がありうるのかを分類しはじめます。のちに密室講義と呼ばれる、この堂々たる脱線ぶり。探偵の奇矯さがそのまま本格史に残ってしまった例です。1981年に17名のミステリ作家・評論家の投票で「史上最高の密室ミステリ」第1位に選出されて以来、その評価は動いていません。
ユダの窓(カーター・ディクスン/1938)
ある年の一月四日の夕刻、ジェームズ・アンズウェルという青年が、結婚の許しを乞うために恋人の父エイヴォリー・ヒュームを訪ねます。書斎に通され、向き合って話を始めた——はずでした。ところが会話の途中、彼は不意に意識を失ってしまう。やがて目を覚ましたとき、内側から施錠された書斎にいたのは、胸に矢を突き立てられて事切れたヒュームと、自分ひとりきりだったのです。動機も機会も、あらゆる符合が青年を指し示していました。
絶体絶命の被告の弁護に名乗りを上げるのが、法廷弁護士の資格を持つヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。ふだんは事件の現場から真相を手繰り寄せる名探偵が、このたびは法服をまとって弁論席に立つ。シリーズ全長編のなかでH・M卿が法廷に立つのはこの一作だけで、読者は陪審員と同じ材料を同じ順序で受け取りながら、見慣れたはずの名探偵の思わぬ横顔に出会うことになります。英語圏でもしばしば「史上最高クラスの不可能犯罪もの」と評される古典です。
僧正殺人事件(S・S・ヴァン・ダイン/1929)
舞台は四月のニューヨーク。春の光がさしはじめたマンハッタンの一画で、胸を矢で射抜かれた青年の遺体が見つかります。名は、ジョゼフ・コックレーン・ロビン——奇しくも童謡でおなじみの小鳥「コック・ロビン」と重なる名です。現場に残されていた手紙の署名は「ビショップ」、僧正。便箋には「だあれが殺したコック・ロビン」という、誰もが一度は耳にしたあの一節がしたためられていました。
常軌を逸した状況を前に、地区検事マーカムが助けを求めるのが、旧友の素人探偵ファイロ・ヴァンスです。美術評論家だった著者の教養を惜しみなく注ぎ込まれた、長広舌と気取った物腰の“衒学の貴公子”。証拠を並べるだけでは届かない犯人の心の奥へ、相手の内面を読み解く心理学的な手法をたずさえて踏み込んでいきます。弓術とチェスと物理学者の一族という道具立ての取り合わせも、それ自体がひとつの美意識。饒舌な講釈ごと味わうのが、この探偵との正しい付き合い方です。
Xの悲劇(エラリー・クイーン/1932)
ニューヨークのラッシュアワー、満員の路面電車のなかで、株式仲買人ハーリー・ロングストリートが毒に倒れます。用いられた凶器は、コルク球に毒針を植えつけたという前代未聞の代物。それほど大胆な手口でありながら、乗客がひしめく車内で犯行の瞬間を目撃した者は誰一人いません。容疑者ばかりが数多く浮かび、誰にでも手を下せたようでいて、では誰が手を下したのかは杳として知れないのです。
白羽の矢が立つのが、名優にして名探偵のドルリー・レーン。かつてニューヨークの舞台を席巻したシェイクスピア俳優でありながら、聴力を失って表舞台を退き、いまはハドソン川沿いの邸宅「ハムレット荘」に隠棲する人物です。耳の代わりに唇の動きから言葉を読み取り、長く舞台で人間を演じ見つめてきた観察眼はいささかも衰えていません。証拠が出そろうまで決して答えを口にしないその誠実さごと、クイーンがバーナビー・ロス名義で放った四部作の第1作で味わえます。
料理長が多すぎる(レックス・スタウト/1938)
保養地カノーワ・スパーに、世界各地から選び抜かれた十五人の名誉ある料理長が集います。めあては、ソースの味ききに興じること。一流の腕を持つ者どうしが互いの技を舌で確かめ合う——その贅沢な集いの主賓として招かれていたのが、自宅の安楽椅子をめったに離れない美食家の名探偵ネロ・ウルフでした。ところが華やかな空気は長くは続きません。名料理長のうちの一人が殺害され、和やかだった食卓は一転して張りつめた沈黙に沈みます。
この一件が、動かないはずの名探偵を動かします。ふだんなら他人の厄介ごとに腰を上げないウルフが、誇り高い料理長たちを前に重い腰をあげる——安楽椅子探偵が例外的に外へ出るという趣向そのものが、本書いちばんの見どころです。料理やソース、香辛料の蘊蓄が全編に行き渡りながら謎解きの骨格は少しも痩せておらず、相棒アーチー・グッドウィンとのやりとりも軽快。シリーズ第5作にあたりますが、この名探偵の人物像と手並みを一冊で味わえる入り口にもなります。
現代の変人たち ―ホームズの遺伝子はいまも
奇人名探偵の系譜は、現代にも脈々と受け継がれています。オックスフォード、ロンドン、ロサンゼルス——三つの街の異才たちへ。
ウッドストック行最終バス(コリン・デクスター/1975)
大学の街として知られるオックスフォード。日が落ちかけた時刻、二人の若い娘がウッドストック行きの最終バスを待っていますが、バスは待てど暮らせど姿を見せません。しびれを切らした二人は、通りかかる車に頼ることを選び、ヒッチハイクを始めます。ここまではどこにでもありそうな、ありふれた夜の一場面にすぎません。異変が訪れるのはその後でした。同じ晩、娘の一人がウッドストックの酒場の中庭で、変わり果てた姿で見つかるのです。
しかも、一緒にヒッチハイクを始めたはずのもう一人の娘の姿が、どこにも見当たりません。手がかりに乏しい、決して恵まれたとはいえない状況から捜査に乗り出すのが、モース主任警部と相棒のルイス部長刑事です。読者は二人のかたわらに立たされ、彼らがつかんだ事実だけを、歩調を合わせて少しずつ知っていくことになります。散らばった断片が一本の筋へつながる道行きを公式の惹句は「華麗なる論理のアクロバット」と呼び、のちにジョン・ソウ主演でドラマ化されて国民的な人気を博す名探偵は、ここから歩きはじめました。
メインテーマは殺人(アンソニー・ホロヴィッツ/2017)
物語はロンドンの一軒の葬儀社から始まります。資産家の老婦人ダイアナ・カウパーが訪ねてきて、棺の段取りから式の運びまで、自分の葬儀を細かく手配していく。まるでその日が近いと知っているかのように。そしてその数時間後、彼女は自宅で絞殺された姿で発見されます。なぜ彼女は、殺される直前に自分の葬儀を準備していたのか。シンプルでありながら、一度聞いたら忘れられない引きです。
この事件に関わってきた元刑事ダニエル・ホーソーンは、作家であるホロヴィッツのもとを訪れ、思いがけない申し出を持ちかけます——自分が捜査していく様子を、一冊の本にしてくれないか、と。鋭い観察眼を持ちながら、どこか付き合いにくさを抱えた男。名探偵の系譜に連なりつつ、その誰とも似ていない独特の苦みが、シリーズを長く牽引する引力になっています。著者が実名でワトスン役を務めるこのメタ構造は、本格ミステリ作家クラブの『2010年代海外本格ミステリ ベスト作品』にも選ばれました。
IQ(ジョー・イデ/2016)
舞台は、ロサンゼルスの貧しい界隈。ここで暮らす青年アイゼイア・クィンターベイは、近所の人々から通称「IQ」と呼ばれています。探偵の免許は持っていません。それでも、警察を頼れない、あるいは頼りたくない住民が困りごとを抱えたとき、静かに手を差し伸べるのが彼の役どころです。そんな彼のもとへ、大物ラッパーからまとまった報酬の仕事が舞い込みます。依頼の中身は「謎の巨犬を使う殺し屋を探し出せ」という、ひどく異様なものでした。
常識の外にあるような謎を、彼は持ち前の観察眼と論理で正面から追い詰めていきます。「現代版ホームズ」という看板が少しも古びて見えないのは、推理の披露される舞台が、これまでの名探偵ものとはまるで違う手触りを持っているからでしょう。制度からこぼれ落ちた人々の暮らしと、そこへ舞い降りる論理の切れ味。その落差そのものが読みどころです。シャーロック・ホームズの熱心な愛読者として知られる著者のデビュー作で、アンソニー賞最優秀新人賞を受賞し、エドガー賞最優秀新人賞の候補にもなりました。
変人探偵に惹かれるのは、彼らが「他人と同じようには世界を見ない」からでしょう。その常識外れのレンズを通してこそ見える真実を、どうぞ覗いてみてください。
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