黄金期米国古典 1935
二人きりの書斎で銃声。
一人が消えていた。
『三つの棺』ジョン・ディクスン・カー

書評

三つの棺

作中で探偵が密室講義を始める異色作。本格史を語る上で避けて通れない一冊。

三つの棺 表紙画像
ジョン・ディクスン・カー 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) 原書 1935年 · 邦訳 2014年
目次

雪が音もなく降り積もる夜のロンドン。閉ざされた書斎から響く銃声。

破られた扉。そして部屋の中には、撃たれた人間だけが残されている。

撃ったはずの男は、どこにもいない。不可能犯罪という言葉が何を指すのかを、これ以上ないほど純度の高い一枚の絵にして見せてしまった古典が『三つの棺』です。

1935年の作品でありながら、不可能犯罪小説の長い系譜のなかで、いまも特別な座を占めつづけています。

物語の入り口

物語は、雪の夜から静かに立ち上がります。ロンドンの町に、音もなく雪が降り積もっている。

その白い静けさのなかを、ひとりの男がグリモー教授のもとを訪ねてくるのです。コートと帽子で全身を包み、顔には仮面。

長身の、正体の知れない訪問者です。玄関先のこの一瞬で、読者はもう不穏なものを掴まされています。

輪郭だけが妙にくっきりしていて、その下にあるはずの顔だけが見えないのですから。

文学者であるグリモー教授は、この客を書斎へ通します。扉が閉じられ、二人は部屋の内側へ消える。

外に残された者たちにできるのは、待つことだけです。そして待つ時間は、長くは続きませんでした。

閉ざされた扉の向こうから、銃声が響くのです。居合わせた探偵ギデオン・フェル博士たちが扉に取りつき、破って踏み込むと、絨毯の上には、胸を撃たれた教授が瀕死で倒れていました。

ここまでなら、痛ましくはあっても、まだ理解の届く光景でしょう。ところが、部屋のどこを見ても、あの仮面の男がいない。

密室状態の書斎から、長身の訪問者の姿は完全に消え失せていたのです。銃声は確かに聞こえた。

撃たれた人間は目の前に倒れている。それなのに、撃った者だけが、この世から抜き取られたようにいなくなっている。

ここで読者が立たされるのは、破られた扉のすぐ内側です。踏み込んだ者たちと同じ床を踏み、そこにあるものと、あるはずなのにないものを、一緒に数え直すことになる。

雪と、沈黙と、闇を裂いた銃声。使われている道具立てはそれだけなのに、序盤のわずかな枚数で、これほど動かしがたい不可能状況が組み上がってしまいます。

この部屋の前から立ち去れなくなる——読者がそうなるのに、そう長くはかかりません。

読みどころ

この長編を古典の域へ押し上げたのは、物語のただなかに置かれた、あまりに有名な脱線です。 第17章。

フェル博士はいったん事件から足を離し、読者のほうへ向き直って語りはじめます。のちに密室講義と呼ばれることになる章です。

閉ざされた部屋で人が死ぬ——その不可能を成立させるやり口には、いったいどのような型がありうるのか。博士はそれを分類し、整理し、ひとつの体系として並べてみせる。

作中の人物が、自分の立っている物語のジャンルそのものを俯瞰して論じてしまう。

読者は途中から、目撃者の席を離れ、講義の聴講者の席へと移されます。名指しで語りかけられ、不可能犯罪という分野の見取り図を、そのまま手渡される。

物語の最中に読者へ地図を配ってしまうこの章立てゆえに、本書は一篇の長編であると同時に、ジャンルを語る書物にもなりました。ミステリの作法が作中で堂々と講じられる例は、そう多くありません。

そしてこの一冊を通り抜けておくと、以後どんな不可能犯罪ものに出会っても、その作品が広い地図のどのあたりに立っているのかが見えるようになります。一冊がその後の読書全体に補助線を引いてくれる。

1981年の投票で「史上最高の密室ミステリ」の第1位に選ばれたのも、そうした働きまで込みの評価だと考えると腑に落ちます。

こんな人におすすめ

頭をフル回転させながら読みたい人、黄金期の探偵小説の薫りを胸いっぱいに吸い込みたい人には、迷わず薦められる一冊です。反対に、現代のサスペンスのような疾走感や、心理の生々しい手触りを求めて開くと、少し勝手が違うと感じるかもしれません。

本書の関心はあくまで「どうやって」という一点に注がれていて、その問いを手のひらで転がして楽しめるかどうかが、相性の分かれ目になります。第17章にしても、物語を前へ進めることより知的な充足を優先した章です。

あの脱線を回り道と受け取るか、この本でいちばんの御馳走と受け取るかで、読後の顔つきはずいぶん変わってくるはずです。

作品の背景

英国版の題は『空洞の男(The Hollow Man)』。ひとつの作品がふたつの題を持ち、どちらの名で呼んでも話が通じてしまう——それだけこの本が、時代と国を越えて繰り返し話題にのぼりつづけてきたということでもあります。

その位置を数字の形で突きつけた出来事が、刊行から半世紀近くを経て起こりました。1981年、17名のミステリ作家・評論家による投票で、本書は「史上最高の密室ミステリ」の第1位に選ばれ、その評価は今日まで動いていません。

頂点として名指しされた一冊が、その後に押し寄せた膨大な新作の波に洗われながら、椅子をひとつも譲らずに座りつづけている。ミステリの歴史のなかで、そう何度も起きることではありません。

密室ものの話題になれば、遅かれ早かれ必ずこの題名が出てくる——そういう位置にある本です。

手に取るなら

いま手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳(加賀山卓朗訳・2014年)。1935年の長編ですが、新しい訳で無理なく読み通せます。

ギデオン・フェル博士が活躍するシリーズの一冊であり、その名をミステリ史に刻みつけた代表作でもある。不可能犯罪という広い土地へ足を踏み入れるとき、最初に立つべき高台は、やはりここです。

ジョン・ディクスン・カーについて

ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。

ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。

密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ミステリ文庫
原書刊行年
1935
邦訳刊行年
2014
翻訳
加賀山卓朗
ISBN-13
9784150703714
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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