ミステリーとしての読みどころ
満員の路面電車。ラッシュアワーで身動きもままならない車内で、乗客の一人が突然命を落とします。
毒によるものでした。けれども、これだけの人にすし詰めに囲まれていながら、誰が手を下したのかを見た者は一人としていない——『Xの悲劇』は、この鮮烈な一場から幕を開けます。
著者について
「エラリー・クイーン」という署名には、二重の仕掛けが隠れています。まず、この名前の作家は実在の一人ではありません。
フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リー、いとこ同士による合作のペンネームです。二人は1929年、出版社のコンテストに投じた『ローマ帽子の謎』でデビューし、同書に始まる〈国名シリーズ〉でミステリ界の頂点へ駆け上がりました。
そして、仕掛けはもうひとつあります。まさにその絶頂期に、彼らは「バーナビー・ロス」という別の署名をこしらえ、まったく別の探偵が活躍する四部作を、正体を伏せたまま並行して発表していたのです。
当初は別人の作家として売り出され、「ロス」と「クイーン」がそれぞれ名乗って公開対談まで演じてみせるという、手の込んだ宣伝まで打たれました。本書はその覆面名義の側から生まれた、ドルリー・レーン四部作の記念すべき第1作(1932年)にあたります。
物語の入り口
舞台はニューヨーク。先の満員電車の中で毒に倒れたのは、株式仲買人のハーリー・ロングストリートです。
用いられた凶器が、またとびきり奇妙でした。コルク球に毒針を植えつけたもの——前代未聞というほかない代物です。
それほど大胆な手口でありながら、これだけの乗客がひしめく車内で、犯行の瞬間を目撃した者は誰一人いません。容疑者ばかりは数多く浮かび上がる。
誰にでも手を下せたようでいて、では誰が手を下したのかは杳として知れない。事件は出発点からして、通り一遍の捜査では歯が立たない性質のものでした。
そこで白羽の矢が立つのが、名優にして名探偵のドルリー・レーンです。かつてニューヨークの舞台を席巻したシェイクスピア俳優でありながら、聴力を失って表舞台を退き、いまはハドソン川沿いの邸宅「ハムレット荘」に隠棲する人物。
耳が聞こえなくなった代わりに、彼は相手の唇の動きから言葉を読み取る特技を身につけ、長らく舞台の上で人間を演じ、見つめてきた観察眼はいささかも衰えていません。ブルーノ地方検事とサム警視から捜査協力を請われたこの老練な探偵が、多数の容疑者の中から、はたして犯人「X」を名指しできるのか。
物語はその一点に向けて、静かに、しかし確かに焦点を結んでいきます。
読みどころ
読みどころは、読者と探偵がまったく同じ手がかりを眺めながら、結論へと歩いていける誠実さにあります。 レーンは事件の経緯を聞き終えると、早くも何かを見て取ったような素振りを見せます。
けれども、証拠が出そろうまで、彼はけっして答えを口にしません。手がかりを一つずつ吟味し、確かめられたことの上にだけ次の一歩を積み上げていく。
〈国名シリーズ〉で鍛え上げられた「すべての材料を読者の前に差し出す」という流儀が、署名を替えた本書でも隅々まで貫かれています。名探偵の推理に身を委ねる愉しみを、これほど正面から満たしてくれる作りは、そう多くありません。
ドルリー・レーン四部作は、本作『Xの悲劇』に始まり、『Yの悲劇』(ともに1932年)、『Zの悲劇』『レーン最後の事件』(ともに1933年)と続いて完結する、短期集中で書き上げられたシリーズです。読む順としてはX→Yが定番とされてきました。
第1作の本書から入れば、二人の作家が別名義に注ぎ込んだ論理推理の呼吸に、はじめから馴染んでいくことができます。クイーンのファン投票では長編ランキングの上位に挙げられるなど、発表から長い時間を経てなお支持を集めつづける古典でもあります。
かっちりと組み上げられた論理の謎解きを、腰を据えて味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。手がかりを自分でも拾いながら探偵と競うように読みたい人にも、名探偵の思考にゆだねて運ばれていきたい人にも、それぞれの流儀で応えてくれます。
息もつかせぬ速度で突き進む物語や、飛び道具めいた派手さを第一に求めて開くと、この端正で理詰めな運びは少し悠然として映るかもしれません。けれど、その落ち着きこそが黄金期本格の醍醐味であり、読み終えたときの納得の深さにまっすぐつながっています。
手に取るなら
いま手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫がもっとも間口の広い形です。中村有希による新訳版が2019年に刊行されており、ウォーターズ『半身』『荊の城』などで知られる訳者の自然な日本語で、古典を初めての一冊としても読み通せます。
同じ訳者でクイーンのデビュー作『ローマ帽子の謎』も読めるため、〈国名シリーズ〉との読み比べにも誂え向き。巻末には杉江松恋による解説を収めています。
続く『Yの悲劇』とセットで書棚に並べておきたい、黄金期米国本格の開幕を飾る一冊です。