黄金期米国古典 1934
雪の上の足跡は一筋。
それも発見者のもの。
『白い僧院の殺人』カーター・ディクスン

書評

白い僧院の殺人

雪に囲まれた離れで起きた殺人、足跡はただ一筋。黄金期を代表する一作。

白い僧院の殺人 表紙画像
カーター・ディクスン 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1934年 · 邦訳 2019年
目次

降ったばかりの雪が、屋敷の別館のまわりを一面に覆っています。そこへ向かう足跡は、ただ一筋だけ。

にもかかわらず、その先で人気女優が冷たい骸となって見つかるのです。誰がどうやってそこへ辿り着き、そして立ち去ったのか——問いそのものが、物理の道理に逆らう形をしています。

『白い僧院の殺人』は、黄金期の不可能犯罪を代表する一作として長く読み継がれてきた名作です。

物語の入り口

物語の起点は、ひとりの女優の渡英です。ハリウッドから海を越えてやってきた人気女優マーシャ・テイト。

その存在をめぐって、彼女の周囲にはどこか剣呑な空気が漂いはじめます。契約がまだ残っていると連れ戻しに来たハリウッドの関係者、ロンドンでマーシャ主演の芝居を仕立てようと動くブーン兄弟、舞台ばかりか私生活の後援まで買って出かねない新聞社主——それぞれの思惑が、彼女という一点に向かって静かに絡み合っていくのです。

舞台となるのは、ブーン家が所有する〈白い僧院〉。招かれた人々は、スチュアート朝の名残をとどめるこの古い屋敷で、往時の空気に浸ろうとしていました。

けれども、その古雅な佇まいは、張りつめた人間関係にいっそう不吉な陰翳を落としていきます。もてなしの場に、いつしか得体の知れない緊張が忍び込んでいるのです。

そして、その不穏さを裏づけるかのように、事件は起こります。屋敷の別館で、マーシャは冷たい骸となって発見されるのです。

ところが現場は、ありえない状況に閉ざされていました。別館の周囲は百フィートにわたって、降ったばかりの雪に覆われている。

にもかかわらず、そこに残されているのは発見者の足跡ただひとつきりで、ほかには何の痕跡も見当たらないのです。人がひとり殺められたというのに、犯人の出入りした跡が雪の上のどこにもない。

この一枚の白い雪原そのものが、解くべき謎として読者の前に差し出されます。

謎の手綱を握るのは、ヘンリ・メリヴェール卿——通称H・M卿です。甥がたまたま〈白い僧院〉の客だった縁から現場へ呼び寄せられた彼は、周囲を煙に巻くような飄々とした物腰で人々のあいだを歩きまわり、やがて核心へと迫っていきます。

名探偵の一挙手一投足に身をゆだねる愉しみが、ここには過不足なく用意されています。

読みどころ

読みどころは、雪という誰の目にも見える舞台の上で、フェアな謎解きが堂々と成立していることです。 手がかりは出し惜しみされることなく読者の前に置かれ、そのうえで、不可能としか思えない状況が理詰めでほどかれていきます。

江戸川乱歩はこの作品を「カーの発明したトリックの内でも最も優れたものの一つ」と激賞しました。読者に解く手立てをきちんと与えたうえで驚かせる——黄金期の本格ミステリが磨き上げたこの美学を、これほど純度高く体現した作品はそう多くありません。

雪と足跡という素材の視覚的な強さもあいまって、読み終えたあとまで情景が焼きついて離れないはずです。

原書が世に出たのは1934年、本格ミステリがもっとも豊かな実りを見せた時代のただ中でした。その黄金期の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、大胆きわまる不可能状況を正面から組み上げてみせたのが本作です。

発表から長い歳月を経てなお、謎の切れ味も物語の呼吸もまるで古びていません。だからこそ、いまはじめて出会う読者にとっても、これは過去の遺物ではなく現役の名作でありつづけています。

こんな人におすすめ

古典的な名探偵ものの呼吸と、不可能犯罪の醍醐味をまっすぐ味わいたい読者には、迷わず薦められる一冊です。事件が起きるまで人間関係の綾をじっくり積み上げていく語り口なので、冒頭から事件が矢継ぎ早に転がる速さを求める向きには、序盤が少し悠長に感じられるかもしれません。

ただ、その助走こそが張りつめた空気を醸成し、雪原の一撃をいっそう際立たせています。腰を据えて謎と向き合いたい夜にこそ似合う作品です。

作品の背景

『白い僧院の殺人』は、ジョン・ディクスン・カーが「カーター・ディクスン」の看板で書き継いだ、ヘンリ・メリヴェール卿を主役に据えたシリーズの一作で、原書は1934年の発表です。のちに〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれることになる書き手の、若き日の冴えがここにあります。

手に取るなら

いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳(高沢治訳)がおすすめです。訳者の高沢治は、同じディクスンの『黒死荘の殺人』を共訳し、『ユダの窓』『貴婦人として死す』などを手がけてきた英米文学翻訳家。

巻末には森英俊による解説も添えられています。本作はヘンリ・メリヴェール卿シリーズの第2作にあたり、H・M卿の活躍はこののちも読者を待ち受けています。

雪原に残された一筋の足跡という忘れがたい謎から、〈不可能犯罪の巨匠〉の世界に踏み込んでみてはいかがでしょう。

カーター・ディクスンについて

カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カー(1906〜1977)がもうひとつの筆名として使った名前です。カーはアメリカ・ペンシルヴェニア州の生まれで、1930年に予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。

1930年代初めにイギリスへ渡り、英国を舞台に書き続けます。本名ではギデオン・フェル博士のシリーズや、シリーズ探偵を持たない『皇帝のかぎ煙草入れ』などを発表しました。

ディクスン名義の顔は、1934年の『黒死荘の殺人』で初登場したヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。でっぷりとした体で怒鳴り散らしながら、密室や足跡のない殺人といった不可能犯罪を解いていきます。

『ユダの窓』はこの名義の代表作に数えられます。カーは1963年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の巨匠賞を受け、「不可能犯罪の巨匠」の異名で呼ばれています。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1934
邦訳刊行年
2019
ISBN-13
9784488118464
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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