ミステリーとしての読みどころ
穏やかな幸福の底に、どこからとも知れない不安が差し込んでくる——。『黒衣夫人の香り』は、フランス古典ミステリの名手ガストン・ルルーが、名探偵ものの傑作として名高い『黄色い部屋の謎』の続きとして書き上げた一作です。
ようやく訪れた二人の門出を、忍び寄る不吉な影が翳らせていく。その予感を追い風にするように、少年記者ルールタビーユがふたたび、起こり得ないはずの謎へと踏み込んでいきます。
著者について
作者のガストン・ルルー(1868-1927)は、ジャーナリスト出身のフランスの小説家です。今日もっとも広く知られているのは、幾度も舞台や映画になった『オペラ座の怪人』でしょう。
けれどミステリの世界で彼の名を確かなものにしたのは、天才記者ルールタビーユを主役に据えた探偵譚でした。本書はそのシリーズ第2作にあたり、1908年に発表されるや、ルルーを人気作家の座へと押し上げます。
事実を丹念に書き留めるジャーナリストの目が、細部を積み上げていく謎解きの緻密さにも通じている——そう思わせる書き手です。前作で鮮烈な印象を残した登場人物たちがそのまま顔をそろえ、物語は地続きに動き出す。
名探偵の帰還を待っていた読者に、正面から応える一冊です。
物語の入り口
物語は、前作の事件からおよそ二年の歳月をへた地点から幕を開けます。長い時間をかけて、ダルザック教授とマチルド・スタンガーソンはついに結ばれ、結婚の日を迎える。
ようやく手にした、穏やかであるはずの時間。ところが、その門出には最初から不穏な気配がまとわりついています。
祝福されるべき幸福のただ中に、どこからとも知れない不吉な暗雲が落ちてくる。その正体をつかもうとするかのように、かつての少年記者ルールタビーユが再び姿を現します。
舞台となるのは、南仏マントン。地中海を見下ろす断崖の上にそびえる、「ヘラクレスの砦」です。
海と絶壁に囲まれ、わずかな出入り口も見張られた、難攻不落の要害。ルールタビーユは、かつてないほど念入りな監視の網を張りめぐらせ、この石造りの牙城のなかに二人を守ろうとします。
誰が入り、誰が出たのか。すべてが見張られ、記録される。
理屈のうえでは、外から手出しのしようがない完璧な守り——のはずでした。
にもかかわらず、そのもっとも堅固なはずの砦の内側で、起こり得ないはずの事件が起きてしまう。あらゆる目が光り、あらゆる通り道がふさがれた場所で、なぜそれが可能だったのか。
読者は、守る側とともに砦のなかへ招き入れられ、逃げ場のない謎を突きつけられる位置に立たされます。閉ざされた一室というより、ひとつの城塞がまるごと巨大な密室と化す——本書の謎は、そんな途方もないスケールで立ち上がってくるのです。
語り手をつとめるのは、ルールタビーユの親友サンクレール。この友人のかたわらから、読者は不可能状況の一部始終をつぶさに見守ることになります。
読みどころ
本書の醍醐味は、「密室」という言葉のスケールが、部屋ひとつからまるごとの城塞へと押し広げられているところにあります。 閉ざされた一室で起きる不可能犯罪は、ミステリの古典的な華です。
本書はその発想を、海と崖と監視に囲まれた砦全体へと拡張してみせる。逃げ道のなさが桁違いで、「どうやって」の一語がとてつもなく重くのしかかってきます。
厳重に守られた空間ほど、そこで起きた出来事の不可解さは際立つ。その理屈を、これ以上ないほど大きな器で見せてくれるのが本書です。
そしてこれは、名探偵ルールタビーユの帰還の物語でもあります。前作で謎に立ち向かった彼が、今度はいっそう切迫した状況で、静かな理性を武器にふたたび挑む。
難攻不落を誇る守りが、かえって謎の手ごわさを引き立てるという逆説も見どころです。守りが堅ければ堅いほど、そこで起きた出来事の不可解さは深まり、名探偵の推理が背負う重みも増していく。
シリーズものならではの、登場人物たちの再会そのものもまた読みどころになります。前作から地続きの人間関係がそのまま動くぶん、あの一件を読んでから本書を開くと、細部の手ざわりまでいっそう深く味わえるはずです。
名探偵の推理に身をゆだねる古典的な謎解きが好きな読者、そして不可能犯罪のスケール感に胸を躍らせたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、テンポの速い現代的なサスペンスを期待して開くと、ルルーの語り口はいくぶん息が長く感じられるかもしれません。
けれど、じっくりと空気を醸し、謎の輪郭を大きく描いていくその筆致こそ、この作家の持ち味です。腰を据えて古典の呼吸に浸りたい夜にこそ、しっくりと寄り添ってくれる物語です。
手に取るなら
現在手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫版が入りやすい一冊です。本書はあくまで『黄色い部屋の謎』の続編ですから、まずは前作から順に読み進めるのが断然おすすめ。
同じ顔ぶれが再び集う喜びも、謎の味わいも、そのほうがぐっと深まります。フランス本格の粋を、名探偵の帰還とともに堪能してください。