ミステリーとしての読みどころ
内側から鍵のかかった書斎で、人がひとり死んでいる。凶器はどこにも見当たらず、直前にその部屋を訪れたはずの男の正体も知れない——『死と奇術師』は、そんな不可能状況を正面から差し出してくる一冊です。
舞台は1936年のロンドン。黄金期の本格ミステリが最も華やかだった時代の空気を、現代の作家がそのまま呼び戻したような作品です。
しかも懐かしさに寄りかかるのではなく、いま読んでも十分に手強い謎解きとして磨き上げているところに、この作品ならではの矜持があります。
著者について
著者のトム・ミードは英国の作家で、本作が長編デビュー作にあたります。書き手として選んだのは、懐古ではなく正攻法の再現でした。
密室、不可能犯罪、そして解決の直前に置かれる読者への挑戦状——黄金期の本格が磨き上げてきた道具立てを、衒いなく現代に組み直しています。刊行は原書が2022年、日本語版が翌2023年。
デビュー作でありながら古典本格の様式を意識した作りは愛好家のあいだで評判を呼び、ミードの名を一気に知らしめました。本作は名探偵ジョセフ・スペクターを主役に据えたシリーズの、記念すべき第一作でもあります。
長く続いてきた不可能犯罪の系譜に、新しい書き手が正面から名乗りを上げた——そんな出発点として受け止められた一冊です。
物語が動き出すのは、高名な心理学者リーズ博士の自宅です。ある日、博士は書斎で何者かに殺されているのが発見されます。
ところが現場は完全な密室。部屋は内側から施錠され、人の出入りできる隙間はどこにもありません。
しかも、命を奪ったはずの凶器が見当たらないのです。捜査を難儀させる謎はそれだけにとどまりません。
博士は死の直前、ひとりの男の訪問を受けていたことがわかります。その男が誰だったのか、どこへ消えたのか——手がかりは博士とともに、閉ざされた部屋の中に沈黙してしまいます。
密室、消えた凶器、正体の知れない客。ひとつでも十分に厄介な謎が、事件の入り口で早くも幾重にも折り重なっているのです。
ここに乗り出してくるのが、元奇術師の探偵ジョセフ・スペクターです。かつては舞台に立ち、観客の目を楽しませることを生業としていた人物が、いまは謎の解き手として事件の前に立っている。
この配役そのものが、作品の空気を決めています。飄々とした佇まいの探偵が、密室という名の「起こり得ないはずの出来事」に静かに向き合っていく。
1930年代のロンドンという背景と、舞台の世界を渡り歩いてきた探偵の物腰が響き合って、ページの上には独特の華やかさと影が同居します。不可能を前にしても声を荒げず、盤面をじっと眺めるように事件と向き合う——そんなスペクターの落ち着きが、読み手の緊張をかえって静かに高めていく。
読者は博士の書斎の前に立たされ、施錠された扉の内と外を何度も見比べながら、スペクターと同じ問いを胸に抱えることになります——いったい、どうやって。
読みどころ
この作品の醍醐味は、謎を出し惜しみしない潔さにあります。 不可能犯罪ものには、雰囲気づくりに紙幅を割くうちに肝心の謎がぼやけてしまう作品も少なくありません。
その点、本作は密室、消えた凶器、正体不明の訪問者という難題を早い段階で読者の前に並べ、逃げも隠れもせず勝負を挑んできます。物語が終盤に差しかかると、古典本格の様式にならって読者への挑戦状が差し込まれ、判断の材料はすべて出そろったと告げられる。
腰を据えて考えたい読者にとって、これほど張り合いのある合図はありません。さらに紙の書籍版では、第十五章からエピローグにかけてが袋とじになっているという趣向まで凝らされています。
読み手に「ここから先は自分の頭で」と迫ってくるかのような仕掛けで、謎解きに正面から付き合おうとする読者への、これ以上なく誠実な作りと言えるでしょう。
手がかりを一つひとつ拾い、論理で不可能を可能へと裏返していく——そうしたパズルとしての謎解きに心が躍る読者には、まっすぐ届く一冊です。逆に、登場人物の心理の陰翳や社会の重みをじっくり読ませるタイプの物語を求めていると、様式へのこだわりが前に出た作りに、少し物足りなさを覚えるかもしれません。
ここにあるのは、あくまで「不可能をどう可能にするか」の一点に賭けた、端正な謎解きの愉しみです。派手な仕掛けよりも、盤面に並べられた条件を眺めて考え込む時間そのものを味わえる人向きの作品と言えます。
その一点に惹かれるなら、読み終えたときに費やした時間を裏切られることはまずないはずです。
手に取るなら
日本語版はハヤカワ・ポケット・ミステリから刊行されています。黄金期本格の香りを、現代の若い書き手の瑞々しい筆致で味わいたい人にとって、これ以上ない格好の入り口になる一冊です。
名探偵ジョセフ・スペクターの活躍は続刊へと受け継がれていくので、本作の手ざわりが気に入ったら、そのまま次の事件へと足を踏み入れるのもおすすめです。