潜入先には老人の死体。
パンチとジュディ
結婚式前夜のスパイ任務が一転、離れた地で二つの毒殺死体。H・M卿のドタバタ喜劇。
明日は自分の結婚式――そんな晴れやかな前夜に、かつての上司から呼び出しがかかったら、どうするでしょうか。しかも待っていたのは、土壇場のスパイ任務。
『パンチとジュディ』は、人生でいちばん大切な一日を翌日に控えた男が、あろうことか厄介事のただ中へ引きずり込まれていく、騒々しくも謎めいた一冊です。
物語の入り口
物語の主役として舞台に立つのは、ケンウッド・ブレイク――親しみをこめてケンと呼ばれる青年です。結婚式を翌日に控えた彼のもとへ、かつての上司であるヘンリー・メリヴェール卿から声がかかります。
カーター・ディクスンの名のもとで活躍する豪快な名探偵で、親しみをこめてH・M卿と呼ばれる人物です。英国情報部を束ねるこの人物が持ちかけてきたのは、まさに土壇場の任務でした。
事の起こりは、一人の老人です。元ドイツ・スパイだというその人物が、国際指名手配中の怪人物「L」の正体を明かすと言って、情報部に接触してきた。
この申し出が本物なのか、それとも巧妙な罠なのか――真贋を確かめよ、というのがケンに下された命令でした。花婿になる前夜に、危険なにおいのする屋敷へ忍び込めというのですから、これほど間の悪い頼まれごともありません。
それでも上司の求めとあっては断りきれず、かくして彼は老人の暮らす屋敷への潜入を引き受けることになります。
ところが、意気込んで乗り込んだ屋敷でケンを待っていたのは、当の老人の死体でした。明かされるはずだった秘密は、口を開く前に閉ざされてしまう。
式は明日に迫り、足元は一瞬で崩れていく。それでもケンは、この急変にめげることなく任務を続けようとします。
果たして彼は役目を果たし、無事に式を挙げることができるのか――物語は、そんな綱渡りの一夜へと読者を連れ出していきます。
ここで読者は、幸せの絶頂と厄介事の底が背中合わせになった、宙ぶらりんな時間に立たされることになります。結婚を目前にした男が、なぜこうも面倒に見舞われるのか。
笑っていいのか気を揉むべきなのか判じかねるまま、ケンと一緒に右往左往させられる。そのじたばたに引きずられているうちに、いつしか屋敷をめぐる謎そのものが気になりはじめている――そこが本作のいちばんの持ち味です。
読みどころ
この作品の魅力は、騒々しい喜劇とまっとうな謎解きが、ひとつの舞台で同居しているところにあります。 表題に掲げられた「パンチとジュディ」は、殴り合いと大騒ぎでおなじみの人形劇。
その名のとおり、物語はどたばたと転がり、登場人物たちは慌ただしく動きまわります。それでいて、その喧噪の裏側では、きちんと筋の通った謎が着実に組み上げられていく。
派手な立ち回りに気を取られていると足をすくわれ、笑いながらページをめくっているうちに、気づけば解くべき問いの前に立たされている。この緩急の付け方が、実に巧みです。
慌ただしさとロジックは相性が悪いように思えて、腕のいい書き手の手にかかると、こうもひとつの読み味へまとまるのだと教えてくれる一冊でもあります。
くわえて、豪快な名探偵H・M卿の存在感が、物語の賑わいをいっそう増しています。難事件を前にしても語り口はけっして湿っぽくならず、どこか祭りめいた騒がしさが最後の頁まで保たれる。
深刻さと軽やかさを一冊のなかで両立させる手際は、黄金期のミステリのなかでも際立った味わいです。
こんな人におすすめ
理屈の通った端正な謎解きを、明るくにぎやかな語り口で楽しみたい――そんな読者にはまさにうってつけの一冊です。逆に、静かで重厚な犯罪劇や、しっとりと翳りのある物語を求めている読み手にとっては、この騒がしさは少し賑やかすぎると感じられるかもしれません。
とはいえ、その喧噪こそが本作の身上です。肩の力をゆったりと抜いて、名探偵の活躍と一夜の大騒ぎにとことん付き合う心づもりで開くのが、この一冊のいちばん幸福な読み方でしょう。
作品の背景
『パンチとジュディ』は1936年に発表された長編です。原題は『The Punch and Judy Murders』。
別名を『The Magic Lantern Murders』とも言い、どちらもどこか見世物めいた響きをまとっているところに、この物語の陽気な気分がよく表れています。
手に取るなら
いま手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳(2017年)が読みやすくおすすめです。ヘンリー・メリヴェール卿の登場するシリーズはほかにも書かれていますから、この一夜の顛末で豪快な名探偵の呼吸が気に入ったなら、同じ名義のほかの事件へ進むのも楽しいはずです。
結婚式前夜という、ミステリとしては少々型破りな幕開けから、一緒に振り回されてみてください。
カーター・ディクスンについて
カーター・ディクスンは、ジョン・ディクスン・カー(1906〜1977)がもうひとつの筆名として使った名前です。カーはアメリカ・ペンシルヴェニア州の生まれで、1930年に予審判事アンリ・バンコランを探偵役とする『夜歩く』でデビューしました。
1930年代初めにイギリスへ渡り、英国を舞台に書き続けます。本名ではギデオン・フェル博士のシリーズや、シリーズ探偵を持たない『皇帝のかぎ煙草入れ』などを発表しました。
ディクスン名義の顔は、1934年の『黒死荘の殺人』で初登場したヘンリ・メリヴェール卿、通称H・M卿です。でっぷりとした体で怒鳴り散らしながら、密室や足跡のない殺人といった不可能犯罪を解いていきます。
『ユダの窓』はこの名義の代表作に数えられます。カーは1963年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の巨匠賞を受け、「不可能犯罪の巨匠」の異名で呼ばれています。
書誌情報
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